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五右衛門風呂のお陰か、質のいい眠りで体が随分楽になった。
起きて部屋を出ると、安藤さんのお母さんが台所で焼き魚を焼いてくれていた。朝食も納豆やみそ汁などの日本食で、大変ありがたかった。
ラ・パス移住地を訪ねた一番の目的は、漆畑奈々子さんから預かった手紙を安藤さんに届けることだった。
パラグアイは郵便事情が非常に悪く、贈り物は大体が中身を盗まれるか、すり替えられ、綺麗な絵はがきなどは売られたりしてしまうため、郵便物が届きにくい。今回預かった手紙は、今まで滞在した国の中でも手渡する価値があるかもしれない。
漆畑さんとは、日本であったミタイ基金のイベントで知り合い、安藤さんの家での滞在経験をお話してくれた女性である。
彼女は2009年に協力隊員としてパラグアイに滞在。
その間に安藤さんの家で何度かお世話になったそうだ。彼女も私と同じように、日本でなかなか体験できない五右衛門風呂や、移住の歴史、日系人の開拓精神や体験談を直接聞くことなど、貴重な体験をさせてもらったと話してくれていた。
ひまわりの封筒に入った手紙を、安藤さん一家に渡すと、嬉しそうに封を切って読んでいた。
哲さんは、きっと漆畑さんや他の日本人にもたくさん話してきたであろう、移住の話をしてくれた。
安藤哲さんがパラグアイへ来たのは、彼が中学校を卒業したばかりの1959年。愛媛県から“あるぜんちな丸”に乗って、両親と共にパラグアイへ移住した。
哲さんの両親は、日本の狭い土地、封建社会を抜け出し、広い土地で大好きな農業をやりたいという夢を持ってこの地へ辿り着いた。しかし、着いた場所は農業どころか、ジャングルだった。
森を開拓をし、まともな生活が出来るまでに30年近くかかったという。
現在安藤さんは、モリンガやマテ、小麦、そしてマカダミアナッツなど、約10万ヘクタールの農園を営んでいる。
哲さんは優しい愛媛弁でパラグアイでの生活の話をしてくれた。
『健康でね、友達もいっぱいおるし、人もたくさん来てくれるしね、楽しいよ。とにかく楽しいんよ』と、口を横に広げて笑ったまま話した。
『7年前にね、息子の結婚式で移住してから初めて日本に行ったんよ。それで温泉に入ったらみんなタオルで隠さずブラブラさせたままでね、本当にこれがカルチャーショックというか、恥ずかしくてようできんかった。ぼくは心もなんでもオープンだけどね、そこだけはね。ははは』
ラ・パスで生まれた息子さんには、山口県から嫁いだお嫁さんが住んでいる。お嫁さんの紀代美さんは生粋の日本人で、6年前にパラグアイに引っ越していたという、すごい勇気の持ち主である。
ハキハキして明るく、今は2人のお子さんに恵まれて、パラグアイの生活を楽しんでいるようだった。
ゲストノートという、安藤さんの家に遊びに来た人が書いていくノートには、たくさんの日本人の感謝の言葉が綴ってあった。
『また来ないよ、マカダミアも頑張るけん』
安藤さんは何度も、『あと1日泊まっていきなさい』と言ってくれた。
きっとこんな安藤さんの家だからたくさんの人が遊びにきて、楽しく過ごしていくのだろう。
また来ます、安藤さん。温かい時間を本当にありがとうございました。
そして、緩やかな風の中で気持ち良さそうに揺れる小麦畑と、蜂蜜のような甘い香りのマカダミアの花の匂いを、私は一生忘れません。
奈々子さんへ
無事にパラグアイの安藤さんに手紙を渡すことが出来ました。
奈々子さんの名前を言うとすぐに、顔が浮かんだようで、『ななちゃんね!』と喜んでいました。
奈々子さんがお話してくれた通り、安藤さん一家は本当に面倒見がよく、実家のような感じのする所でした。
私はあんなに大きい小麦畑を初めて見たのですが、踏むのが申し訳なく、恐る恐る歩いていたら、安藤さんが、『踏んでもいいよ。小麦もえりちゃんみたいな素敵な人に踏んでもらったら喜ぶけん』と言ってくれました。
安藤さんの人柄は、誰でも心を許してしまう、彼の農場のように広い心を持った人でした。
久しぶりの日本食と広大な農場、そして安藤さんが大切にしているマカダミアの木に会えて本当感激しました。またお互いここへ戻って来られると良いですね。本当にありがとうございました。