“日亜荘”理事の松本さん夫妻

7/29

 昨日は朝方まで、知人を通じてウルグアイの家探しを行った。出発は明々後日。なんとか見つかるといいのだが・・・

 仮眠を取った後、Centro Nikkei会長のリカルドさんとコーディネーターのモニカさんらと、都心から車で1時間ほど離れた、エスコバルという町にある、日系人の老人ホーム“日亜荘”を訪問させてもらった。
ここを訪問することとなったきっかけは、“日亜荘”の理事を務める、松本ツヨシさんと、奥さんのカズコさんの息子である、アルベルト松本さんの紹介によるものであった。

 アルベルトさんの存在を知ったのは、彼の著書“アルゼンチンを知るための54章”という本を読んだことがきっけだった。
インターネットでアルベルトさんの名前を検索すると、彼のサイトに連絡先が載っており、『是非一度お会いしたい』とメールを送ると、丁寧に返事を返してくださった。
東横線の元住吉の駅前の喫茶店でお会いして以来、私が滞在する国々で知り合いを紹介して下さったりしている。
アルベルトさんの協力なしでは、ここまで充実した旅にはなっていなかっただろう。
国際弁護士と活躍するアルベルトさんは、アルゼンチン生まれの日系人で、現在は日本に在住している。私自身、アルベルトさんのご両親に会えるのをとても楽しみにしていた。

 エスコバルはのどかな町である。背の高い建物もなく、緑豊かで、特に天気の良い今日は木々たちが風と戯れながら喜んでいるようだった。
アルベルトさんのご両親は、『よく来て下さいました』と日本語で優しく迎えてくれた。
今年で25周年を迎えた“日亜荘”に入居しているのは現在3名。
皆さん90才近い年齢だが、とても高齢者とは思えないほど元気だった。

 アルベルトさんの父、理事の松本ツヨシさんは、1957年(昭和32年)、当時の戦後移住ブームに乗って、あめりか丸で出身地である、香川県塩江町からアルゼンチンに移住した。
当時アルゼンチンは世界トップスリーに入るほどのとても裕福な国だった。こよなく花を愛する国民性から、花卉業が盛んだった。今でも多くの日系人たちが、花卉業に従事している。
入居している、3名の日系人の方々と松本さんのご両親が、昼食に日本食を振る舞ってくれた。
巻寿司に里芋の煮物、白菜の漬け物や刺身、デザートにはおはぎと豪勢な食事だった。




                     広い庭にて


 食事のあと、広い庭で彼らはミニゴルフを楽しんだ。
食事の時隣の席になった、入居者の石川多津子さんが、彼女がアルゼンチンへ来た経緯を話して下さった。
石川さんは秋田県出身で、呼び寄せ花嫁として、移住した旦那様を追って1954年、アルゼンチンへ移り住んだ。
『たまに日本人の方が、“日本を捨てて”という表現を気軽にしますけど、私は自分の故郷は人生の原点だと思っていますし、いつも心の中にあるものですから、捨てたわけではないのです。今もそしてこれからもずっと一緒にあり続けるものです』彼女の口から出たこの言葉に、私は耳を傾けた。

 庭の芝生でひなたぼっこを満喫し、再び都心へ戻る。
ほんの少しの時間だったが、忘れがたい貴重な話をたくさん聞かせてもらった。
日亜荘のみなさんは、『また、いつでもきてくださいね、日本みたいに遠慮はいりませんから』そう言って、明るく見送ってくれた。
彼らの笑顔は、本当に人生を楽しんでいる青春真只中のように私の目に映った。



アルベルト松本さんへ

 アルベルトさんの故郷でありご両親が住む、エスコバルの“日亜荘”を訪問しました。
ご両親をはじめ、入居している方々に本当に良くして頂きました。
“日亜荘”は私がイメージしていた“老人ホーム”とは、全く違うものでした。
皆さんとてもイキイキとしていて、老人ホームというより、若者の寮といった感じでした。
私の方がたくさん元気をもらった気がします。
移住についての歴史なども、たくさん教えて頂きました。
そのとき何にどう感じたか、私の人生にとってもとても勉強になることばかりでした。本当にこの機会を与えて下さったことに感謝しています。
そしていつも親のように心配して下さり、ありがとうございます。
下の写真は、お母様のカズコさんが作ったもので、アルベルトさんに見せたいとおっしゃっていました。
折り紙で着物をとても器用に作ってらっしゃいます。
遠い所に住むアルベルトさんのことをとても大切に、大切にしていらっしゃるのが、よく伝わって来ました。とても素敵なご両親にお会いさせて頂き、本当にありがとうございました。

アルベルトさんの故郷アルゼンチンより ERIKO