
6月30日の今日、約1ヶ月半のペルー滞在が終わろうとしている。
祭日だった昨日は、滞在しているマリア家の親戚の集まりへ招待してもらった。それぞれに兄弟が多いため、かなりの人数が集まっていた。
食事はチチャロン(豚肉)、Pollo a la braso(鳥の胸肉)などをごちそうになり、久しぶりに味噌も食べた。
すっかり家族になじんで居心地が良くなっているが、明日にはまた違う環境が待っている。
この国へ入国するまでは、ペルーという国がどういう国なのか、想像もつかないほど未知だった。
日本の国土の約4倍の面積を持つ大きな国は、コスタ(海岸部)、シエラ(内陸部)、セルバ(アマゾン地帯)の3つに別れ、それぞれに独自の気候や文化、習慣を持っている。
シエラではインカ帝国が栄えたクスコを中心に、今なおインカの末裔たちが、言葉や信仰を守っている。
ペルーへ来る前にもインカ帝国についていくつかの本を読んでいたが、どこか遠い話のようで頭にスッと入ってこなかった。
しかし、実際に遺跡や歴史的な地に足を運び、体で体感しながら学んでいくと、心が動き、頭がよく働いた。改めて学習とは経験であると実感したのだった。
クスコを始め、土着の信仰が色濃く残る地域では、今なおケチュア語やアイマラ語が日常に話されている。
それらの言語が公用語に指定されているのも納得である。何年か前までは、これらの言語を話す人達への差別が激しく、ちょうど私と同じ年代の人々は話せない人も多いが、時代が過ぎ、今は彼ら自身、彼らの先祖達が伝える伝統や文化にとても誇りを持っている。
ケチュアやアイマラの文化は、それらの時代に築かれた1つの文化という枠を越えた、宇宙の普遍的な哲学を内包する、大変貴重な文化であると思う。
ペルー国内には、観光スポットが数多くあり、トイレや路店など、観光地としての設備やサービスは整っているが、実際に外国人を相手に観光業が始まったのは、テロリスモ時代が終わった1992年からのことである。
それまでは世界的に重要な遺跡などが保護されておらず、一般の人達によって壊されたり手を加えられたりしていたのだそうだ。
観光業の歴史は浅いものの、外国人に対しての多言語で対応するスキルや個人の知識レベルと見ると、ガイドさん達のレベルは世界的に見てもとても高いと感じた。
ペルーでの生活の中で、今なおよく耳にしたのはやはり80年代~90年前半までのテロリスト時代のことだ。
ある日、リマの空港からタクシーで家へ向かっている最中、60歳にはなろうかと思われるタクシーの運転手さんが、大きな通りを走行中、こんな一言をつぶやいた。
『この道はね、20年前までは当たり前に2、3体の死体が転がっていたんだよ。今じゃ考えられないけどね。あの時代に大切な人をたくさんを奪われてしまった』
彼が目を細めて通りを見つめる先には、当時の風景が目に写っていたようだった。
リマの人達は、ここ30年で一番良い時代だと口を揃える。
確かに今のペルーは、ちょうど子供の成長期のように好奇心が旺盛で、失敗を恐れないような勢いがある。それはペルーの人達からも感じることである。
私がリマで大変お世話になった人達のほとんどが、日系人だったこともあり、“Nikkei社会”に触れる機会が多かった。
人から人へ、彼らはまるで頑丈な一枚岩のような連携力と絆を持ち、リマの社会に大きな影響を与え続けている。
私が出会った日系人のほとんどは日本語を知らない人達だったが、それも第二次世界大戦で日本とアメリカが対立していた際に、アメリカの影響下にあったペルーでは、日本語を話すのを禁止されてしまった影響であることを知った。
遠く離れたペルーの地で、建物、施設等で幾度“JAPON”(日本)の文字を目にしたことだろう。
私が滞在させてもらっていた家のマリア・ルイサ・コハツさんは、弁護士として働いている。
彼女が働く事務所は、リマで唯一の日系人弁護士のみが働くスタジオであり、ペルーの人たちからの信頼も厚い。
彼らを通してたくさんの人達を紹介してもらい、学校や施設など色んな所を案内してもらった。
彼らの協力なしでは、ペルーでの充実した滞在はあり得なかっただろう。
心から感謝している。
教科書には書かれていないが、戦後日本が苦しかった時に、真っ先に支援物資を送り、手を差し伸べてくれていたのは、外国に住む日系人たちなのである。
今回の震災についても同様である。日本から最も遠く離れた地に住む、温かい心を持った日系人達の“思い”を私は絶対に忘れない。