病名カミングアウトの、もう一つの意味。 | 北川悦吏子オフィシャルブログ「でんごんばん」Powered by Ameba

病名カミングアウトの、もう一つの意味。

本日、最後のお客さんでした。慶應の点滴ルーム。
慶應病院は、私にとっては、安心できるような、でも、自分の身体の不具合を再確認させられてしまう悲しいような、不思議な場所。
今日、主治医に、ネットニュースで見た、と、先日の私の病名及び病気のカミングアウトのことを、心配されたけれど、なんとなく、私が、思っていることは…。

そう、今、私の思っていることは、
こういう(慶応病院の写真)を、さっきの、一つ前の、綺麗な花の写真をpostするのと、同じように、ここに(フェイスブックのタイムラインに)、あげられるようになればいいな、ということです、人々が。たくさんの人々が。
それは、こういう所に通わなければならない人々が、という意味です。

ひとつ前の写真は、奇麗なひまわりの写真です。

読みづらくてすみません。
この記事は、ここまでは、フェイスブックにアップしたものです。
同じ文章をコピペして貼っています。

ここから、先は、このブログに書きます。
長くなりそうだから。
そして、ブログ読者にも読んでほしいから。


カミングアウトの意味をこの前の記事に書きました。
サクッと。
のんちゃんが、もう気にしない年頃になったから。

と、そんな単純なものなんだろうか。
どっかに、ひっかかっていました。

私は、わりと気軽に、ツイッターにも、ブログにも(そう、そもそも、ここに重い病気の様子を書いてましたよね)、フェイスブックにも、自分の身体のことを書いてpostしています。

でも、実際、それをやる人は、実は少ないんでは、と思います。
日常の他のことは、書いても、それはやらない。(難病ブログなどの、分野はまた、別の話です)。

たとえば、芸能人でも有名人でも。
亡くなった時に、あの人がそんな病気であることは、誰も知らなかった。
あの人はえらい。誰にも言わなかった、と言われ亡くなっていくことが、わりとあります。

それは、芸能人や有名人でなくても、会社員の方でも、主婦をしている人にも、あることだと思います。
病気を隠す。
まあ、敢えては、言わない、と言ってもいいけれど。

そして、死んでしまった人ではなくても
今は元気な人が、実は、あの頃、こうこうこういう病気で大変だったんだ
と言っているインタビューなどもよく見かけます。
芸能人、有名人。

なぜだろう。
と思っていました。
それは、人に言わないでえらい。
ひとりでがんばって、持ちこたえてえらい。
心配をかけないでえらい。
とは思います。
でも、なぜだろう。

もしかすると、人に心配をかけるのは申し訳ない、
だけではなく
その人自身が、言わない方が楽だったのかもしれない。
心配されるのも、面倒くさいし。
自分も、病気を忘れていたいし。

そんな心もすごくわかります。
元気なふりをしていると、元気な気がして来るので。
病気のことを自分だけしか知らない場合、自分が忘れていれば、ないのも同然、となります。
誰かが、共有したら最後
「あ、この人、身体は大丈夫かしら?」と自分が、気にしていない時まで、気にされてしまうかもしれません。
それを思ったら、言わない方が、楽、という選択も、充分、あると思います。

それは、それで正しい一つの有り様です。

でも、もう一つ。

これがさっきの話につながりますが
この黄色い美しいヒマワリをpostするようには、
とてもじゃないけど、慶応の治療室をpostすることはできない。
という空気があるのではないか、と思うのです。

そういう「圧」みたいなものが、世間にはあるのではないか、と思うのです。
それがはっきりした形になる時に、「差別」というものになります。


もしかしたら、カミングアウトしなかった人たちには
これは、言わない方がいい、という、カンがあったのではないでしょうか?
損しても、得することはない、という。
それは、世の中に、というか、世の中というのは、結局は、人間ひとりひとりの心の中、という意味だと思うのですが、「差別の意識」があるからではないでしょうか?

できるなら、負のことは(身体に関する)言わない方がいい。
何を言われるかわからない。(というか、もちろん、言われる)

実際、私が病名をカミングアウトしたあと、広告の仕事がひとつ飛びました。
私はそのことについて、特に何も思いません。
それも一つの見解だなあ、と思うだけです。企業としての。

でも、人の心の中にないだろうか。
その闇みたいなもの。
負をしょった人は、遠ざけたい、というような心。

その無言の圧を感じるから
人々は、なるべく、病院はpostしたくないよね。
薬を飲んでるって言いたくないよね。
病気は隠したいよね。
だって、負、だから。不幸だから。
不幸は、健康で明るい世界の人たちからは、遠ざけられるから。
光の世界からは、遠ざけられるから。
と思うのではないでしょうか?

私と同じ病気の有名人を、私は二人、知っています。
その人たちは、カミングアウトしていません。

また、違う難病の有名人の友人もいます。
その人も、カミングアウトしていません。

理由は、もちろん、聞きません。押して知るべし、です。(私と違って、表に出る人だから特に、ということはあるかもしれません)
それで、当人たちが楽ならいいです。
でも、もし、苦痛ならば、
本当は言った方が楽なのだけれど
とてもじゃないけど、これは言えない、と思うなら(というか、思う感じもわかる)
それは、世の中の「圧」に問題があると思います。

この差別する側の人は
自分がされる側に入ることは、想定外です。
恐ろしく、楽観的です。


それは、恐ろしいことだと思うのです。

だって、その人もやがて、それを背負う確立は高いのです。
人は、ずーっと健康で生きていられるわけではないので。
この高齢化社会で。ポンと死なせてもらえるわけがない。


その時、その人は、自分自身の中に、負をしょいこむことになります。
自分は健康だ美しい、病気のやつは醜い、不運なやつだ。差別すればいい、と高笑いしていた
心の中の、小さな小さな闇は
自分がそれをしょったとたんに、暴れ出すのではないでしょうか?

どうして俺が、私がこんなことになるんだ。
冗談じゃない。
俺は俺を、私は私を、認めないぞ、と
パニックになってしまうんじゃないでしょうか?

あれ、なんか、話が逸れたか?
逸れたような、逸れないような。

ま、そんな感じです。
論文だったら、許されないけれど、ブログなので許してもらうか。
急に、こんな文章になっても(最近、娘が論文シーズンで。つい。受験の話です)。

その、でも、心の闇は、正直、自分の中にもあるんだ、と思います。
初期衝動、という言葉を使っている友達がいました。
それについて。

たとえば、手足がない人を見たら
一瞬、ギョッとするよね。それは仕方がない。
初期衝動。
この先は、私の意見ですが
初期衝動は、理性とか自分の心もちで、是正することが出来ると思います。
人間は正しいことを見極める力を持っています。知性、という。


無駄な差別がなくなるといいと思います。
健康で元気な人たちだけが、人生を謳歌する権利があるわけではありません。
何か、身体や心に不具合があったって
充分に、人生を謳歌していいんです。
楽しんでいいし、幸せだ、と言い切っていい。
堂々としてれば、いいんです。

だから、私は、飲む薬のことを
慶応の点滴のことを
ともだちとのお洒落したディナーのように
シメキリが大変だ、ということと、同じように
そして、副作用で動けない時のことも
当たり前のように、
日常として
ツイートしたり、フェイスブックにあげたり、ここに書いたり(ちょっと、ブログはお休みしてましたが)しているのです。

これは、特別なことではないのだ。
と、私の一部なのだと。
私は、不幸ではないのだ、と。
私は、負をしょってしまったのではないのだ、と。

自分に言い聞かすために。
自分の心の中の闇をつぶして、膿を出してしまうために。

私はこの人生で、生きていくのだ。
でも、充分に生きようはあるのだ。
だから、まず、隠すのは、やめよう、と。

そうすることによって
世の中の人たちが持った、小さな闇の膿も、
出るといいなあ、と。

気づかず、持ってる心だったりするから。それは。
人間は、差別する動物だから。


そんなことを思って
この、慶応病院の写真をpostしました。
そして、何か、少し懐かしくやさしく見えたので。

そして、このヒマワリは、のんちゃんと写真詩集「恋をしていた。」を出すために撮りに行った、植物園の花です。

どちらも、愛しい、私の日常です。



FullSizeRender.jpg



IMG_5885.JPG





恋をしていた。/ディスカヴァー・トゥエンティワン

¥1,512
Amazon.co.jp



恋をしていた。 [ 北川悦吏子 ]

¥1,512
楽天