朝日新聞「逆風満帆」(中) | 北川悦吏子オフィシャルブログ「でんごんばん」Powered by Ameba

朝日新聞「逆風満帆」(中)

朝日新聞・土曜版『be』の人気連載「逆風満帆」のコーナーにて、北川が特集されました。


この度、朝日新聞様のご厚意により当ブログにも記事を掲載させていただいております。

続きまして、11月30日掲載の第2回(中)の記事をお送りいたします。


なお、(下)は12月7日、朝日新聞の別刷り「be」に掲載されます。

どうぞよろしくお願いいたします。


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第2回(中)・『体くぐらせ届けるセリフ』


 北川悦吏子(51)の脚本には、しばしば妹思いの兄が登場する。投影されているのは6歳上の兄、高嗣(57)。コンピューターサイエンス専攻の筑波大教授だ。

 JR岐阜駅から高山線で約分。岐阜県美濃加茂市で過ごした子ども時代は、新たな遊びを生み出す天才だった兄の後ろを追いかけた。フジテレビ系で放映された「ロングバケーション」に、3階の窓から木村拓哉がスーパーボールを投げ、道路にバウンドさせてキャッチする場面がある。これも兄がやって見せてくれたことだった。「アルハンブラの思い出」をギターで奏で、作曲にいそしむ兄の影響を受け、妹も曲を作り始めた。


 地元の信用金庫に勤める父は、自宅から通える短大や名古屋の女子大への進学を勧めた。「東京へ出たい」という娘の思いを知る専業主婦の母が、受験費用を出してくれた。早稲田大学第一文学部に合格しても、なお渋っていた父を説得してくれたのは兄だった。「4年で戻る」と誓約書を書いて東京へ向かった。


 実家にいた頃は人前で泣けず、泣きたい時は物干し台に上がった。上京すると一転、解き放たれたように、青春を謳歌した。最初に入った女子寮の門限は午後時。遅れぬよう、駅から夜道をダッシュするのさえ楽しかった。このころの恋愛体験が、のちにドラマの基となる。


 もともと腎臓に持病があり、16歳のとき「子どもは産めない」と医師に宣告された。「そんな体に産んでごめんなさい」と泣き崩れる母を慰めるなかで、自身では受け入れた。1993年に結婚したときも、子どもを持たないことが前提だった。その後、97年に思いがけず妊娠、主治医のゴーサインを受けて娘を産んだ。


 「いま思うと、出産は私にとって出来すぎのことだった。思った以上に体への負担が大きかったのだと思う」。99年に国の難病指定を受ける病が発覚し、ほどなく強い痛みに襲われて入院した。家族の意向で病名は公表していないが、原因や治療法が明確でないだけに、さまざまな薬を試し、再燃と寛解を繰り返した。

 2004年にTBS系で放送された「オレンジデイズ」を手がけた時は、配役が決まった後、2カ月間入院した。ステロイドの副作用で10㌔太り、着られる服は2着しかなかった。

 難聴の女子大生に扮し、「なんで私ばっかりこんな目に遭うのよ!」と憤る柴咲コウに、「君は、ワガママすぎる」と返す妻夫木聡のセリフは、当時北川が通信社勤務の夫、石原耕太(49)に言われた言葉だった。「どの作品も、本人のコアな部分が光にさらされているようだ」という夫は、妻が書いた連続ドラマを最後まで見通したことがない。



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2004年秋、小学1年生だった娘「のんちゃん」と。写真展に行った帰り道、夫が撮影した



病と向き合う心 重ねる


 06年に日本テレビ系列で放映された「たったひとつの恋」は、造船鉄工所で働く亀梨和也と宝飾店社長の娘、綾瀬はるかによる「格差」を超えた恋愛が一つのテーマだった。血液のがんを患い骨髄移植をしたという綾瀬の設定について、プロデューサーの西憲彦(45)が「なくてもいいのでは?」と提案すると、「そうでないと、私は書けない」と反論した。


 「あんたいつも正直すぎる。そんな風に生きてきて、傷つくことはなかったの?」「あったよ。でも、決めたんだ私。思ったことはなるべく言って、相手に伝えて、自分にも人にもウソつかないで生きていこうって」――。どこかに死を感じている主人公だからこそ、飾らず、いまを大事にするセリフが生まれた。


 納得して自分の体を通さなければ、書くことができない。ゆえに一つひとつの言葉が切実になり、見る人に刺さっていく。北川が脚本・監督をつとめた2本の映画をプロデュースした岩井俊二(50)は、「むき出しのひりひりしたセリフは、役者自身が持っている赤裸々な部分をも触発する」とみる。


 「たったひとつの恋」の収録後、病状は悪化、連続ドラマの執筆を休止した。「これまでの薬が鉄砲だとしたら、これはミサイルですから」と処方された薬も効かず、とうとう09年、患部の臓器を切除する手術に踏み切った。手術後に縫合不全を起こし、入院は3カ月に及んだ。


 面会が許され、1カ月ぶりに当時小学6年生だった娘(16)が見舞いに行くと、何本もの管につながれた母は泣き出した。「泣かれると困るじゃないですか。父も黙っちゃうし」。目の前の母に「ガンバレ」と携帯からメールを送ると、それを読んでまた泣く。うつの症状も出て、にっかつ時代の先輩である脚本家、龍居由佳里(55)に「もう、がんばれない」と電話口で泣きつき、「死んだら私が困る」と励まされたこともあった。

 それでも少しずつ、手術前よりいい状態が続くようになった矢先、新たな試練が北川を襲った。=敬称略


(佐々波幸子)