ファンという立ち位置で見えること。 | 北川悦吏子オフィシャルブログ「でんごんばん」Powered by Ameba

ファンという立ち位置で見えること。

マイケル・ジャクソンの映画のことを書いた記事の、コメントを今読んでました。


私が気に入ったシーンは(聞かれてたので)、

「誰かマイケルのそばを懐中電灯で照らしてあげて」(セリフ正確ではありません)

と舞台監督か何かが、言うでしょ?

リハ中に、真っ暗に暗転したあとに。

あのコトバが、うまいなあ、と思った。

説明するのも、ヤボですが、あの時、たまたま真っ暗でマイケルの足場が悪いだろうな、と思って、スタッフが言ったコトバを、印象的に、作り変えてるのが、ウマイと思った。

象徴的に響かせてるよね。

まっくらやみの中にひとり立ってる、マイケルに誰か光を…、みたいに。あれは確信犯。


あと、オーディションシーンで、受かった人を読み上げて、受かった人が「おお、俺だ」と思って喜ぶ、というくだりをカットしていたところ。

ポイント省略して、いきなり、喜んでる人のカットに行ったよね。おみごと。


ちょっと作り手っぽい感想になったかもしれないけど、この二つが、印象に残りました。


あと、つらつらと思ってたこと。

ファンという立ち位置でしか、見えないことって、感じられないことっていうのが、あるんだなあ、ということ。


私は、小田さんと、稲葉さんと、スピッツの草野くんが好きだったけれど

その3人ともと、仕事ができた。

仕事をしたら、仕事相手になった。

そのうちのふたりとは、食事もした。

そしたら、やっぱりファンではなくなった。


東方神起の、ジェジュンから電話があったことを、東方神起のファンの人たちはうらやましがるけれど、

その人と電話をし合う仲になったなら、必ずファンではなくなります。


私は、そう思います。


別に、生身のその人を知って、がっかりする、ということではまるでなくってね。

距離の問題。

その人と自分との間に、何メートルか以上の距離がなければ、ファンという存在は成り立たないんだと思う。

近くに行かなければわからないことがあるのと同じように、

遠くにいることでしか、感じられない感情って必ずある、と思います。

そして、それ大きい。


それは、ある種、ファンというものを持つ、スターの宿命かも。


なんか、ふと、マイケルジャクソンの死に、つながるものを今、見つけた気がしたんだけど。


不用意な発言はいけないので、もうよしますね。


いろんなことを、日々思います。

ここに、書けてるのは、ほんのわずか。


ずっとずっと24時間、ブログ書けてたらいいのに。

コメントを読んでいると、わかってくれる人がいるのがうれしい。

話を聞いてくれる人がいるのが、うれしい。


あれ。

なんだか、泣きそう。

酔っぱらってるからか(と言っても、飲んだのはもう何時間も前)。


真夜中のメールはいけませんね。

ついつい。ね。しゃべりすぎるし、どんな気持ちもふくらんでいく。

うれしいのも、悲しいのも。


では、そろそろお休みなさい。

きっと、また、明日。