茂木正男さん「お別れ会」 | ケセラセラ通信日記

茂木正男さん「お別れ会」

2月11日(水・祝) 昨年の11月15日、映画を通じての仲間・茂木正男さん(本名もてき・まさお。私たちはモギさんと呼んでいた)が亡くなった。まだ61歳だった。茂木さんは、1976年に「見たい映画を見る会」を結成し、後に上映集団「メーヴェ」と改称。1987年には第1回高崎映画祭を開催(今年で23回目になる)、2004年にはシネマテークたかさきをオープンさせている。
私とは山形国際ドキュメンタリー映画祭などで顔を合わせる程度だったが、それでももう20年近くのお付き合いということになる。シネ・ヌーヴォ代表の景山理(かげやま・さとし)とは、自主上映時代からの同志だから、絆はもっと強く、深い。
その茂木さんの「お別れ会」が、11日、高崎駅に隣接するホテルメトロポリタン高崎で開かれたので、景山と行ってきた。宿泊場所(高崎駅前プラザホテル)は景山がネットで調べて予約してくれたが、彼は当日、いま進めている「大阪アジアン映画祭2009」の打ち合わせを東京でやるというので、高崎までは別行動ということになった。さて、どういう方法・ルートで行けば、安く、疲れずに行けるだろうか。私が選択したのは、東京まで「ぷらっとこだま」で1万円、東京からは「日本中央バス」で1500円、という案。事務所を出発し新大阪駅にて朝食で1時間、「こだま」が4時間、バスが出る池袋までの移動と昼食で1時間、バスが1時間45分、合計約8時間の旅である。9時ごろに事務所を出、午後5時前に高崎駅に着いた。さっそくホテルにチェックイン。景山はまだ来ていない。「お別れ会」は午後6時から受付、6時30分開始なので、時間はまだある。ホテルのフロントで「おいしいコーヒーを飲ませてくれる店を知りませんか」と訊いて、レンガ通りの喫茶店「コロラド」へ。年配のご夫婦がやっている、落ち着ける店だった。6時までそこにいて、会場に向かった。
ホテルメトロポリタン高崎6階「丹頂の間」は、広い部屋だった。フリージアなどの明るい色調の花に囲まれた茂木さんの遺影に、まずは一礼。会が始まる6時半に、やっと景山が現れた。東京での打ち合わせが延び、酒まで飲んだようで、すでに酩酊のご様子。私のほうは、こういう場ではいつも身の処し方に困る。同じ人とばかり話しているのも詮ないし、知っている人がいても、たいていは誰かと話しておられて、そこに割って入るのも気が引ける。それに、こっちは知っていても、先方は私のことなど覚えておられないかも、などと考えてしまう。私が大好きな『犬猫』(04年)、『人のセックスを笑うな』(07年)の井口奈己監督も来ておられたのだが、お顔をうろ覚えで、声をかけられない。その人を囲んで話している人の輪の中に、さっき挨拶してくれたK氏がおられたので、彼がその輪を離れたときにつかまえて、「あれは井口監督だよね」と確認。井口監督が一人になられるのを待って、ようやく話すことができた。でも、「次回作のご予定は?」「頑張ってください。あなたの映画は大好きなので」くらいのことしか言えなかったが。
ほかにも監督たちが来ておられた。崔洋一、若松孝二、阪本順治、青山真治、利重剛、塚本晋也といった面々。女優・石田えりさんの顔もあった。これらの人々は壇上に呼ばれ、挨拶もされた。最後は、現・シネマテークたかさき支配人、高崎映画祭総合ディレクターの志尾睦子(しお・むつこ)さんが、心のこもった言葉で締めくくられた。参加者は230人ほどだったという。

高崎駅近くのダイニング・バー「海舟の詩」で二次会。ここにも30人もの人が集まった。6人ぐらいずつに分かれて座り、私の前にはなんと青山真治監督が! お話しするのは初めてだったが、常識をわきまえた人、という印象だった。東京まで帰るという人もあり、10時半ごろにいったんお開きとなる。北海道、東京、京都、大阪、大分などでミニシアターや自主上映をしている人たち(景山もそこに含まれる)は、別のテーブルに移って、まだ話していた。私はシネ・ヌーヴォの実務にはタッチしていないので、シネマテークたかさきを見に行くことにした。それをつくるとき、私も少し出資したのだが、まだ一度も訪れたことがなかったので。
店を出ると、先述の志尾さんとシネマテークたかさき副支配人の小林栄子さんにバッタリ。これから景山らと合流するという。映画館を見せていただきますと言うと、「これからなら、ちょうど最後の上映が終わるころだから、まだ開いてると思いますが、スタッフに電話しときます」と言ってくださる。
高崎駅から歩いて10分弱、「あら町」にそれはあった。志尾さんたちが言っておられたように、ちょうど最後のお客さんが出てくるところだった。2スクリーンあって、1階が58席、2階が64席。こぢんまりした、きれいな映画館だった。そして、その日は特別に、茂木さんが「生涯の一本」と言っておられたという『日曜日には鼠を殺せ』(64年、フレッド・ジンネマン監督)を一日中かけていたそうだ。それを知っていれば、と残念だったが、後の祭り。

私が泊まるホテルはそこから近く、狭いバスルームでシャワーを浴びて、すぐに眠ってしまった。と、寝入りばなの12時15分、隣室の景山から電話。三次会まであって、そこで誰かと喧嘩して、いま部屋に着いたところだという。「それはご苦労さん。じゃ、明日も別行動ということで」と電話を切る。やれやれ。