女性の時代 | ケセラセラ通信日記

女性の時代

昨日、パソコンのメール送信が復旧した。So-netのテクニカルサポートデスクというところへ電話したのだ。相手は若い女性(たぶん)。「パソコンのメール画面を立ち上げてください」から始まって、彼女の指示のままにクリックし、文字を入力していったら、30分もかからずに直ってしまった。「凄い!」と思い、最後は「ありがとうございました」と電話口で頭を下げた。
彼女にすれば、よくあるケースで、たいしたことではないのかもしれない。しかし、彼女にこちらのモニターは見えていないのだ。それに仕事の性質上、「分かりません」は禁句だろう。ということは、パソコンのシステムやトラブルの種類を熟知していなければ、務まるまい。やっぱり凄いや。
そんなことを考えながら歩いていると、道行く女性たちがみんな颯爽として、顔を高く上げているように見えてくる。彼女たちだって、生きる辛さは同じだろうに、いや、まだまだ男中心の社会なのに、なぜこんなに生き生きして見えるのだろう……。「勢いというものかな」と思う。女性を縛りつけ、抑圧してきた多くのものが、急速になくなり、あるいは壊されている。その勢いやパワーを、世の女性たちは無意識に感じ取っているのではないか。

そういえば、山形国際ドキュメンタリー映画祭で見た映画も、女性が中心だったと言えなくもない。
王兵(ワン・ビン)監督の『鳳鳴(フォンミン)―中国の記憶』は、1950年代以降に中国で起きた反右派闘争や文化大革命の粛正運動で酷い迫害を受け、1974年に名誉回復するまでの、一人の女性・和鳳鳴(ホー・フォンミン)さんの物語だ。自宅のソファに座った鳳鳴さんが、延々と自分と夫が受けた筆舌に尽くせぬ差別や迫害のありさまを語る。キャメラは据えっぱなしで、ナレーションも当時の映像なども入らない。ただ、よどみなく話し続ける、ということは自己の内面で自分の人生を繰り返し反芻し続けてきたのであろう鳳鳴さんの、年輪が刻まれた厳しい顔を正面から映すばかりなのだ。
確かに、ものすごい人生だし、とてつもない国だと思うのであるが、これで3時間は、正直言ってしんどかった。しかし、最もシンプルな、究極のドキュメンタリーだとも言え、これに大賞(ロバート&フランシス・フラハティ賞)を与えた審査員の見識もたいしたものだ。
上映後の観客との質疑応答で(これがあるのがヤマガタのいいところだ)、「なぜこういう撮り方をされたのですか」と問われ、王兵監督は「何よりもまず、この鳳鳴という女性に惹かれたから」と答えていたと記憶するが、まさにこの映画は一人の女性の存在感に支えられているのだ。

似たようなテーマの作品に、東志津(あずま・しず)監督の『花の夢 ある中国残留婦人』がある。こちらは「お国のために」と18歳で満州に渡った栗原貞子さんの、35年にわたる苦闘の物語。中国人と結婚し、子供をもうけるが、そのために帰国もできず、敗戦後は差別と貧困にあえぐことになる。現在は日本で暮らしておられるが、共に来日した子供や孫は、中国人差別にさらされている。戦争に翻弄された愛国少女の、なんともやりきれない苛酷な人生だ。
ただこちらは、栗原さんの現在の日常もきめ細かく描かれ、少しホッとできる部分がある。
監督の東志津さんは、1975年大阪生まれで、これがデビュー作になるという。32歳の女性が「戦争」という大きなテーマを、真正面から、しかし軽やかな手つきで描いているところに新鮮さを覚え、その勇気に感心した。

また中国映画になるが、馮艶(フォン・イェン)監督の『稟愛(ビンアイ)』はアジア千波万波部門に出品され、小川紳介賞を受賞した。三峡ダム建設にともない移転させられる一家の主婦・張稟愛(チャン・ビンアイ)さんを7年にわたって追った作品。稟愛さんは、病弱な夫、高校生の息子、中学生ぐらいの娘のために黙々と働く農民で、口数も少なく、監督と打ち解けるまでにはかなりの年月を必要としたようだが、近づいて話を聞いてみると、自分の人生経験から得た見事な「智恵」を持っていることが分かってくる。移転の条件について、彼女が横柄な役人とやり合うところは、本作の白眉と言ってもいいだろう。だが、結局のところ、庶民が辛い目を見るのは、いずこの国も同じなのであるが。
この馮艶監督は、私も少しお手伝いした小川紳介監督の発言集『映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて』(93年・筑摩書房)に惚れ込み、日本語を猛勉強して、その本の中国語版を出版してしまった女性で、私も面識があり、それゆえに今回の小川紳介賞受賞は嬉しい結果だった。

いっぽう男性監督のほうは、『遭難フリーター』を撮った岩淵弘樹君(24歳)がいる。時給1250円の派遣アルバイトで索漠とした日々を送る自分自身を描いたセルフ・ドキュメンタリー。これまで述べてきた女性に比べ、申しわけないが、なんともパッとせず冴えない日常だ。
これも上映後の質疑応答でだったと思うが、「なぜ自分を撮ろうと思ったのですか」と問われて、「他人にキャメラを向けるのは怖かったから」と答えていた。そういうところにも、今どきの男の子の弱さが表れていよう。ただ、これ以上落ちるところはないという〈怖いものなさ〉があって、それが妙に小気味よい効果を生んでいる。
何より印象に残ったのは、良くも悪くも現代の若者の〈今〉が、ビビッドに捉えられていることだった。
さて、岩淵君、いやフリーターを脱皮した岩淵監督、次はどんな映画を撮るのだろう。