いくつになっても | ケセラセラ通信日記

いくつになっても

須藤元気(すどう・げんき)という格闘家がいる。リング上の彼を見たことはないが、テレビのバラエティ番組などではよく見かける。精神世界というか、スピリチュアルなものに興味があるらしく、そんな発言をしていることが多い。軽佻浮薄、面白ければそれでいいというテレビの世界で、その生真面目さは時に浮いて見え、「そんなこと、言わなくてもいいのに」と思うことが何度かあった。誰にでも好かれようとするのがテレビに出ている人の習性だから、「ちょっと変わった人ね」と思われるのは、彼にとってマイナスだろうと思ったのだ。まあ彼の身内でもないから、彼がどう思われようと私の知ったこっちゃないのだが。
で、昨日の深夜、テレビを見ていたら、その須藤君が出ていて、心に残ることを言った。
記憶で書いているので、正確ではないが、人生を楽に過ごす方法として、1・ゴシップ(人の噂、悪口、陰口)を言わない、2・憶測をしない、3・(自分への批判的な発言を)個人的に受け取らない、というのだ。
1と2を1週間続ければ、自分がいい人になったように思えるとか、3については、人生はテレビドラマのようなものだから(仮のものだから、という意味だと思う)、他人の発言もドラマの台詞なのだと思えばいい(傷つかない)とか言っていたと思う。
最近、多くの人の中で仕事をしているので、この言葉はちょっと効いた。
1・もともと私は、人の悪口や陰口は言わないほうだが、噂話は大好きだ。それは人物評と言ってもよく、「ああ、この人は彼(彼女)のことをこう思っているんだ」と、違う見方を教えられることも多い。だから噂話がすべて駄目とも思わないのだが、悪口や陰口を聞かされるのはあまり愉快ではない。しかし、ときとして胸の中で拍手喝采していることがあり(それは顔にも出ているだろう)、つい相づちを打っていることもある。心しなければ。
2・憶測もしない(できない)ほうだが、ときにはそれが必要なのかなと思うこともある。つまり、人の言葉のウラを読んだり、相手の出方を推測して、こちらはこう出るなどの戦略的な身の処し方が求められることもあるからだ。だが、私にはそういう能力が欠如しているようだ。仕方がないから、バカと言われようが、甘いとなじられようが、憶測なしで行くしかあるまい。だって、憶測なんかしはじめたら、際限がなくなってしまうんじゃないかなあ。
3・これはちょっと難しい問題だ。この世を仮の姿と見るのも理解できるし、そうしたほうが他人の(批判的な)発言を客観的に捉えられるというのも分かる気がするが、その他人の立場に立ってみれば、マネキンに向かって話しているような感じかもしれないし、そこには生身の人間同士のコミュニケーションが成り立たないようにも思えるのだ。でも、一切を〈空〉と見る世界観には、捨てがたいものがある。

とまあ、須藤君が何歳なのか知らないが、青年格闘家の言葉にも一喜一憂する〈迷えるオジサン〉なのでありました。

実際の仕事のほうは、忙しすぎてもう無茶苦茶な状態になりつつあり、書くのもイヤなのです。今後は更新もままならないだろうことを宣言しておきます。あ、年賀状も出せるかどうか分かりません。あしからず。