沈黙の恐怖 | ケセラセラ通信日記

沈黙の恐怖

歩道を歩くときは、なるべく端に寄る。反対側に移るときは、後ろに注意する。わがアル中探偵マット・スカダーがそうするのは、不意に襲われることへの警戒からだが、私の場合はそうではない。自転車が怖いのだ。背後から音もなく近づいてきて、すぐ脇を猛スピードで走り抜ける。思わず「ウワッ」と声が出てしまうこともしばしばだ。先方は振り向きもしない。
ハンドルにはベルやブザーが付いているはずだが、その音を聞くことはまずない。商店街などで、「邪魔だ、どけどけ」とばかりにけたたましくベルを鳴らしているオヤジをたまに見かけるが、あのほうがまだマシだ。少なくとも、こちらの注意を喚起しているわけだから。
また、夜でもライトをつけない。最近は夜の街も明るいから、ライトをつけなくても見えるということかもしれないが、あれは「ここにいますよ、近づいていますよ」という合図でもあると思うのだが。
ベルを鳴らさないのは、目立ちたくないからかもしれない。ライトをつけないのは、ペダルが重くなるからかもしれない。いずれも乗り手の理由であって、そこに歩行者への配慮はない。こんな時代に、「せめて『すいません』『ごめんなさい』と声をかけましょう」などと言ってみても、虚しいばかりだ。いちばん現実的なのは、自転車用通路をきちんと整備することだが、この国の道路行政には期待できない。
かくして、自転車にぶつけられて骨折したり死んだりするのは嫌だから、おじさんはビクビクしながら(安全なはずの)歩道を歩いている。

喫茶店に入れば、サラリーマン風の若いのが、携帯電話で話している。しかも大声で。私なら店を出て話すがね。しかし、そんなことはおくびにも出さない。にらんだりすると、「なに見とんじゃ!」とスゴまれかねないから。
新聞を読みながら、それとなく観察する。メニューと雑誌が、席の左右に放り出してある。電話で「オレが迎えに行ったるわ」と言っている。おう、早く出ていけ、と思う。男はブリーフケースを持ち、席を立つ。メニューと雑誌は、もちろんそのまま。そのブリーフケースが、飲み終わったコーラのグラスに当たり、派手な音を立てて床で割れる。散乱するガラスと氷。しかし、男は無言。申しわけ程度にガラス片を拾っていると、店員が近づいてきて「いいですよ、そのままで」と言う。ここで初めて男は「すいません」と小声で言い、店を出ていく。まず周りの客に謝るべきだろうが、と思う。
さらに驚くべきことに、モップか何かを取りに行ったはずの店員が、なかなか戻ってこない。その間に新しい客が入ってきたら危ないじゃないかと思うが、別の仕事をしているらしい。人手不足なのかもしれないが、それは優先順位が違うだろう。
ようやく戻ってきても、無言。ガチャンガチャンと、わざとのように大きな音を立ててガラス片をバケツに放り込んでいる。
誰もが、何かしら不満を抱え込んでいるのだ。犬死にしたくないおじさんは、ますます慎重にならざるを得ない。ま、犬死にするのが運命なら、それも仕方ないな、とどこかで思っているのだが。