『団塊ひとりぼっち』から | ケセラセラ通信日記

『団塊ひとりぼっち』から

山口文憲(やまぐち・ふみのり)著『団塊ひとりぼっち』(文春新書)読了。肩のこらない〈団塊ばなし〉で、楽しめた。
団塊世代の現在(なんだか評判が良くないらしい)から、過去(もちろん堺屋太一の『団塊の世代』にも触れ、団塊にもいろいろな人がいたという話に続く)を振り返り、未来(ひとりぼっちであることを覚悟して生きよと説き、ハゲへの対処法やファッションの話で終わる)への明るい(?)展望を述べている。そういえば、「現在過去未来~」という歌もあったなあ。そう、渡辺真知子の「迷い道」。この人は1956年生まれで、団塊の一世代あとになるが。


で、まず私は山口文憲氏の文章が好きだ。自分で書いたのでは、と思わせる著者紹介には《身上は独自の視点とたくまざるユーモア。達意の文章にはファンも多い》とあるが、まさに〈達意の文章〉で、難しいことも易しく表現してスラスラと読ませてしまう。これは私が理想とするところでもある。
思えば、大学の卒論を書いた後に、担当教授面接というものがあった。それを経て卒論への評価が下されるわけ。その場で何を話したのか、もうほとんど忘れてしまったが、『万葉集』研究の大家だった老教授から「達意な文章ですなあ」と褒められたことだけは鮮明に記憶している。嬉しかったのだ。
脱線したが、山口氏の文章には〈読ませる工夫〉が随所にちりばめてある。『読ませる技術』(ちくま文庫)という著書もあるぐらいだから、その道のプロなのだ。たとえば、「みる」「いう」「いま」「ちがう」「たいてい」「みなさん」などは平仮名表記で統一して読みやすさに配慮する一方、ごくたまに「もだしがたい」(黙っていられない、そのままにしておけない)、「拳拳服膺」(けんけんふくよう。常に中心にささげ持って忘れない)などの語を挿入して読者をハッとさせる、という具合だ。
山口氏の体験(「ベ平連」活動など)や現状(シングルであることなど)にも共感するところ多く、特に書名の由来ともなっている〈ひとりぼっち〉の勧めには大いに勇気づけられた。

勉強になったこともある。「団塊の世代のシッポのほうに当たりまして……」などと人には言ってきた私だが、これはどうも違うらしい。私は1951年生まれなのだが、団塊の世代とは、《狭義には1947(昭和22)年から49(昭和24)年の3年間に生まれた人間のことを指し、広義には1946(昭和21)年から50(昭和25)年までの5年間に生まれた人間を指す》のだそうで、《これが社会学の方面ではどうやら通説になっているらしい》とダメ押しされているのだから。これからは「団塊の世代のすぐあとに生まれまして」と言うことにしよう。
ちなみに、山口氏は1947年生まれで、バッチリ団塊の世代である。

もうひとつの個人的感慨。《私の名前に「憲」がつくのも、お察しの通りこれによる》という記述があって、《これ》とは日本国憲法のことなのだが、実は私の名前にも〈憲〉がつく。というより、それ一字なのだ。
だが、それが山口氏と同様に日本国憲法からきているのかどうかは定かでない。小学生のときに「お父さん・お母さんが、なぜあなたにそういう名前をつけたのか、お家に帰って聞いてみましょう」という宿題があったような気がするのだが、その答えは覚えていない。かすかな記憶か、後の想像かもはっきりしないが、憲には〈手本、模範〉という意味があり、そこから取ったと言われたのだったか。でも、これは現状との落差を考えると、恥ずかしくてとても口にはできない。私の父は〈改憲派〉だったから、日本国憲法による、というのは考えにくいし。ああ、ちゃんと訊いておけばよかった。

名前つながりで、もうひとつ。2日(金)の朝刊ラテ欄(もちろんラジオ・テレビ欄のこと)に、田中徳三監督の傑作『手討』が載っていた。録画したかったが、外出先ではどうにもならない。残念、と思いつつ出演者のところを見ると、市川雷蔵、藤由紀子とあって、「ご同輩、あんたもか!」と言いたくなってしまった。
何度も書いているが、藤由紀子の〈紀〉は誤りで、正しくは〈起〉なのだ。少なくとも映画『手討』に関しては。これは画面のクレジットで確認したから間違いない。だだ、多くの資料では〈紀〉になっていて、私も本を作るときに間違えてしまった。
私が読んでいたのは産経新聞で、念のために朝日新聞も見てみたが、こちらも〈紀〉になっていた。おそらく、新聞社に情報を流したところが同じなのだろう。しかし、立派な校閲部もあるはずの大新聞2社である。ひょっとすると〈起〉は『手討』のときだけで、あとは〈紀〉で通したのかもしれないという疑惑も(あながち私の言い訳だけでなく)深まってきたと言うべきか。