ヨーガの深み | ケセラセラ通信日記

ヨーガの深み

水曜日はヨーガ教室の日(ヨガと言ったりヨーガと言ったりするが、私の教室ではヨーガの語を使っている)。前日は自宅へ帰れなかったので、夕方自宅へ寄り、着替えなどの用意をして教室へ。われながら、「よくやる」と思う。
ヨーガではさまざまなアーサナ(ポーズ、姿勢)を行なうが、「柔軟性を競うものではない」という教えを頼りに、硬い体のままあまり無理をせず、曲げたり、伸ばしたり、ひねったりしているが、それも5回目ともなると、周りの人たちがきれいな形を作っているのが気になり、いささか恥ずかしい。そう思うなら、自宅でも練習すればいいのだが、ズボラな性格はまだ直らず、週1回の教室に通うのが精一杯(それもときどき休む)。
しかし、得意なアーサナもある。各アーサナの間に、全身をリラックスさせるためにシャヴァ・アーサナ(屍の形)を行なうが、これは得意だ。仰向けに寝て、両手・両足を少し広げて全身の力を抜くだけ。要するにダラッと寝ているだけなのだが、体が左右対称になっていなかったり、肩や首に力が入っていてはいけないとされる。だが、これだけは最初から褒められた。普段もダラーッとしているからであろう。
2時間の教室のうち、最後の20~30分は瞑想に充てられる。なかなか「うまく瞑想できた」とは思えないのだが、この時間も好きだ。シッダ・アーサナ(達人の形)という、あぐらに似た形で座り、目を閉じて意識を眉間(あるいは胸の中央)に集中する。さまざまな雑念が去来するが、その都度、それを排除していく、というか消していく。「無」になることが目標なのだと思うが、それは「虚無」とは違うのであろうか。あるいは、宇宙と一体化することを目指すのだとすれば、それは「神の視点」に立つことになりはしないか。そんなことを考えていたが、これも雑念には違いない。喝!

ヨーガ教室を出ると、喫茶店に入って「おさらい」をする。その日注意されたことや感想をノートに記すのだ。このときは自分でも不思議なほど真面目。ヨーガをやったおかげで、プラーナ(気)が活性化されているのだろうか。家に帰ると、元の木阿弥なのだが。でも今度の水曜日までに、せめて1回か2回、自分でアーサナをやってみよう(できるかなあ)。