何やら真面目なタイトルですが、私なりに思うことがあるので書き留めておきたいと思います。
昨日、旦那さんのパソコンの調子が悪いのでアップルストアに持って行きました。
お店に入った途端店員さんに話しかけられ、アポがあることを伝えると
「あそこに居る背の高い、今青い服を着たお客さんと話している彼のところに行ってください」
と言われました。
その方、お店でただ一人の黒人の店員さんだったんです。だから私は『回りくどい言い方しないで、なんで、あそこに居る黒人店員、って言わないんだろう』と思いました。
でも旦那さん曰く、アメリカ人は、人種で人のことを説明するのは失礼なこと、と小さい頃から教えられるそうです。これは黒人だけでなく、白人、アジア人、ヒスパニックどの人種もだそう。
でも、人種ってある種個性のようなもので、あの人は背が高いとか、痩せてる、太ってる、髪が長いなどと、その人の人となりを説明するもの、それ以上でも以下でもないと思うし、nig*erというならまだしも、blackやAfrican Americanというのも人を描写するときに使ってはいけないなんて、なんだかoversensitiveじゃないかしらと思うのです。
Oversensitiveになることが、逆に『あの人は私と違う』という意識を植え付け、結果差別につながることもあるのでは?と思ってしまいます。
私は、大学のゼミで日本のマイノリティー(在日韓国人、アイヌ民族、被差別部落など)について勉強していたけど、見た目では誰が日本人で、在日韓国人で、誰がアイヌ民族の人かなんてわかりませんよね。
私のゼミの教授は、街に出て「部落に対する差別についてどう思うか」という調査をしたところ、「ぶらく??ブラックのことですか?日本での黒人に対する差別のことですか?」といった反応があったそうです。若い人の中には被差別部落について知らない人も少なくないようです。被差別部落の研究者は、「この差別の歴史を忘れるべきではない。若者ももっと被差別部落のことを知るべき」という人も居ますが、知ることが差別意識につながるということも有り得ると思います。
そう考えると、もちろん過去の過ちを繰り返さないためにも歴史は大切だと思いますが、変に中途半端な知識があって、それが差別に導いてしまうくらいなら、何も知らないほうが良いんじゃないかと。知らなければ差別しようもないし。と思う自分も居ます。
昨日はアメリカ人の友達とグループで食事をしたので、この疑問を投げかけてみたら、一人の友人が『Ignorance is bliss』と言っていました。(日本語に訳すと、知らぬが仏といったところでしょうか。)彼女は半分Native Americanの血がはいっています。彼女には小学生の甥っ子が居ますが、今時の小学生はNaitive Americanのことを学校であまり勉強しないそうです。
彼女が小学生の頃は必ずカバーしなければいけないトピックだったようで、彼女は「今の子は、Native Americanについてあまり知らないから、甥っ子が学校でいじめられたり差別されたりすることがなくて良いけど、彼が自分のルーツについてあまり知らないのは残念」と言っていました。
彼女の言い分は、納得です。理想は、世の中の人間が、知識認識がありながら、それでも差別しないことを選ぶことだと思うけど、世の中そんな出来た人間ばかりじゃありません。
結局昨日散々討論しましたが、皆が納得できるような答えは誰も出せませんでした。
でも、不謹慎かもしれませんが、すごく興味深いトピックで、こういうことを議論していると、あ、私多民族国家アメリカに居るんだ!と感じ、面白い夜でした。