【NO】を表明することの新定義
について綴る予定でしたが、
読者の方からいただいた感想、
コメントで、
このシリーズについて
更に綴りたいなと感じたこと
があります♡
↑
自分の世界に平気でう〇こを
投げ込んでくる他者の話
と、
そういう人を自分の世界に招き入れ
更に居座らせ続ける自分の在り方の問題点
について綴りましたが、
そもそもそういう人って
どういう状態??
という話を補足として。
自分の世界を、不平不満、不信や疑念
怒りや苛立ちでう〇こまみれにする
と、類は友を呼ぶの法則で
人の領域にもそれを平気で投げ込む人を
自分の周りに集めることになる。
それで。
そういう人って
『自分の領域を大切にしていない』
という話は前記事でもお伝えしたけど
そういう人は、自分の領域にを
投げ込まれるような経験が子どものころ
あったのかもしれません。
というか、誰でも多かれ少なかれあります。
ただ、分かれ道は
『それに気づいて、自分の領域を
綺麗な状態に戻し、保とうという視点に
自分を引き上げて行動したかどうか?』
の違い。
それを世間ではあらゆる言葉で
表現されています。
禊、浄化、クリアリング、ヒーリング
などなど。
日本の神道もそうだし、
バリヒンズー教を学んだ時も体感した、
ハワイのホ・オポノポノなどもそう。
スピリチュアル界だと
クリアリング、浄化、ヒーリングと
言われたりもするが、
とにかく全部同じこと!!!
古くから伝わる教えがちゃんとあるし
それが継承されているのには意味がある。
でね、
自分の領域を、自分で責任もって
美しく、軽やかで、喜びに満ちるものに
『ちゃんと自分で丁寧に扱う』
ことをしないでいる、と、
当然人からも『ぞんざいな扱い』を受ける。
なぜなら、
他者からの扱い=自分の自分自身に対する扱い
だから。
自分を丁寧に扱わない人は
類友の法則で、同じ世界線で生きている人を
自分の周りに引き付けることになる。
だから、を投げ込まれたら
それに対して、健全な抗議をしてNOを
突き付けることももちろん実行して
かつ、
【それを引き入れた自分の側の責任とは?】
を考えてみること。
だって、
人生の中に現れる他者は全員
自分の状態を
写し鏡になって教えてくれるため
に派遣されてきた師匠
だから。
さて、
世の中のハラスメント、いじめ、
嫌がらせというのは
どこから来るのか?
それは、
自分自身の身から出たと
類友で呼び寄せた他者から投げ込まれた
とで、だらけになった自分の世界の
不平不満、不信、怒り、イラ立ちを
感じたくない!見たくない!
逃げたい!目を背けたい!
それらを感じることの痛みから
逃げるために
自分の中にあるを少しでも減らしたくて
他人に投げつける、
この人になら投げつけてもいいや
という人を探して、投げつける。
これを心理学では
【スケープゴート】
と呼びます。
これがあらゆる
ハラスメント、いじめ、嫌がらせの正体。
「嫌がらせをせずにはいられないほど
自分の中の不満や嫌悪を抱えている状態」
という目線で見ることが出来ます。
人は、人を攻撃対象とするとき
「自分自身の中の嫌悪感、不満、不安、怒り」
などのネガティブな気持ちを、
自分自身で解決する代わりに
他者に映し出して(投影)、
この人のせいだ、この人の問題だ
と、相手に問題と責任をすり替えることで
自分を守ろうとする場合があります。
問題の本質と自分で向き合う代わりに
その問題によって起こる痛みを軽減するために
感情の解消のはけ口にする
それがスケープゴート
そうやって、の応戦
合戦をみんなで繰り広げて
自分も他者もみ~~んな
まみれの世界を一緒に作る
というわけになる。
でもね、
自分自身の内側を見つめ省みることを怠り
他人のせいだ、社会のせいだと
自分自身で解決する代わりに
他者に映し出して(投影)、
この人のせいだ、この人の問題だ
と、相手に問題と責任をすり替えること
たった1人辞めて
たった1人でも
自分たった1人からでも
その合戦を降りて
古くからの教えでもあるように
自分の領域は自分で責任をもって綺麗にし
【心理学の投影という法則】
を用いて見方を変えて
わたしの世界に現れる人はみな
わたし自身の状態を写し鏡になって
教えてくれている師匠
であり、
わたし自身が自分に対する接し方を
省みるキッカケをくれている人である
(だからといってその人を居座らせる必要はないよ、感謝してサヨナラしてOK)
そして、それを元にして
わたしは更に自分の世界の中を
綺麗な状態にしてあげる丁寧さと
愛情をもって関わる方向に
自分をシフトさせ、自分を引き上げます
自分の中に光を広げます
自分の中をお花畑の世界にしていきます
としたらどうなると思いますか?
人は、自分の中にあるものを
他者に投影します。
つまりの投影のし合い、試合、合戦が
光合戦、光の写し愛、
お花畑の分け合いっこ
になる。
それはたった1人からでも始められる。
合戦に乗じるのか
合戦に乗じるのか
それは常に、自分が決めていること。
どちらがいいかは
やはり、実はいつも自分が決めている。
人はたった1人からでも
変化を創り出せる。
それくらい
特に女性は
パワフルなの。