わたしは、行先の国を訪れる前に
必ずその国の歴史的背景を学んでから
来るようにしています。
その国の「今」が、どんな経緯、
どんな人々の想いの連なりによて
今に至っているのか、それはただその国に
「行くだけ」では決して見えてこないものだから。
『知らないものは、見えない』のが人間。
だからこそ、古代史、歴史、現代史、宗教、経済
などについて、ある程度本を読み漁ってから
その国を訪れるようにしています。
これは、わたしなりの
『その国にお邪魔させてもらう上での
その土地と人々への敬意』
として大切にしていること。
今回もベトナムについて学んできて
実際に体感に落とし込むために
ツアーに参加して、
感じたことが、
あの空港での出来事と繋がる。
この時の『お前は間違っている!私が正しい!』
という、いざこざのやり取りが、
なんとなく心に引っかかっていて
その引っ掛かりが、このツアーや
この翌日に行く戦争博物館で明らかになった。
それは、このベトナム戦争において
(その他の戦争もそう)
正義の介入が大きく関わっている。
詳しい歴史的なことはここでは省きますが
戦争は、必ずそれを「目論んで」わざと
自国内で対立する構造を作ったり
対立を作り出して、支配して、搾取する
というのがセオリーです。
で、ここからが本題ですが、
わたしたちはなんとなく
「戦争って駄目だよ、反対だよ」
って言ってるけどさ。
侵略して占領するとか、だめなこと!
って言ってるけどさ。
はたして、
自分はどうなんだ??
ということを考えさせられたのです。
自分ごとに置き換えて、考えられている人が
どれくらいいるだろうか?
わたしは自分事として、
考えられているだろうか?
って。
毎日の生活の中で、
不用意に、無意識に、当たり前のように
他者の領域を
侵略していないだろうか?
正義と称して。
と考えさせられたのです。
・あの人は本当はこうすべきなのに!
・なんで○○してくれないの!?
・これが正しいやり方なのだからこうすべき
・○○するのが当たり前なのに!
・みんなが○○してるのだから○○すべき
など、日常生活の中でやってはいないだろうか?
『自分が正しい』って思うのは勝手だが
『自分は正しい、
あなたは間違っている、
だからあなたが変われ』
ってやってはいないだろうか?
自分は決して、戦争に賛成していない
戦争などしていないし、関係ない
と思うかもしれないけど
自分こそが正しい!という正義をもって
相手の領域にずかずかと踏み込み侵略し
我が物顔で「あなたが間違っている」
「だから私に従うべき」
「あなたが変わるべき」
「そちらが折れるべき」
「そっちが受け入れるべき」
と無意識に侵略することが
戦争とどう違うのだろうか?
これは、眼をそむけたくなることです。
「自分はそんなことしてない」と。
でも、その「無意識」が集合して
終結したのが『集合的無意識』で
その集合的無意識が反映されているのが
社会という結果、戦争もその1つ
実は戦争ってどこかで起こっていること
ではなくて、1人1人が創り出していること
争うことは、自分の正義を振りかざして
自分こそが正しいという
大いなる勘違いのをもって
相手の領域を侵略し、侵害し、
説き伏せて、占領しようとすること
人の領域を無意識に侵略しようとるする心を
生活の中で発動させていないだろうか?
そうだとしたら、
なぜ、そうするのだろうか?
逆に、他者からの侵略を無意識に許可して
しまってはいないだろうか???
どちらともに共通することというのは
『自分の領域への愛の欠如』
(というか、愛はそこにあるはずなんだけど
それを封じ込めて、代わりに恐れを発動させている
というのが正しい解釈)
自分自身に対する尊敬、尊重、敬愛
を、普段から示している人は
同等に他者のそれも尊敬、尊重、敬愛
で接することができる
(というかそれがデフォルトとなっている)
だから、他者に対して
『自分の正しさを証明するための侵略』
など、必要がない、発想すら浮かばない
のではないかと思う。
自分を真に、敬い、愛し、尊敬し
大切にし、自愛・慈愛することが
常となれば、
それは他者に対しても、同等に反映される
世界は自分の内面の写し鏡だから。
空港での、入国審査街の列での
あの出来事
「わたしが正しい、お前が間違っている!」
あの出来事は、わたしに
戦争とはどこか遠い所で起こってることではなく
極めて身近な一人一人の心の在り方の
結集された結果によって起こるもの
というメッセージと
『自分は他者に対して、そのように
接していないか?よく振り返り、
心して向き合うように』
というメッセージとして
それを通して、戦争という事実と向き合うように
その戦争と向き合った過程を通して
今の実生活と向き合うように
在り方と向き合うように
自分の領域を大切にし、
他者のそれも敬愛できる在り方を
大切にできる自分で在れるように
全ては自分の内から
自分の内側が波紋となって
外側に広がるから