1996年
  ロリィタやピンクハウスに憧れたりしてくる。
  でも、着てみるだけ勇気は出てこない。

  5年間勤務していた会社を辞める。
  しばらく、今後、何をやるか考えたりし、ブランク期間を置く
  
  その頃、可愛いお洋服、女装、ピンクハウス系のお洋服にますます、

  興味が出てくる。

  その頃、主に、パソコン通信、niftyserveのファッション系の会議室で

  コミュニケーションを取っていた。
  そこで、ピンクハウスの女装をしている人がいて、衝撃を受けた。
  ピンクハウスを着て、普通のカフェでお茶している写真。
  自分も、憧れだったピンクハウスを着て、女装して外に遊びに

  行きたくなってきた。
  しかし、まだ、そこまで勇気は出なかった。
  その頃、新宿の近くで印刷系の仕事をしていて、仕事が終わると、
  新宿の東口側の方にあったピンクハウスの路面店にたびたび立ち寄り、
  ブラウスを見たり、ワンピースを見たりしていた。
  私は、その頃は、男性のスタイルだった。
  店員さんから、「ブラウスがお好きなんですか?」と言われた。
  私は嬉しかった。その店員さんは、ピンクハウスを着ていた、

  私よりも年下だった。
  私は、彼女に一目惚れをしてしまった。
  その後、たびだひ、お店に立ち寄るようになった。
  その後、多摩センターの方に仕事が移動になり、

  新宿のお店には行けなくなった。
  秋ぐらいで、そこの仕事はやめて、都内に事務系のアルバイトをしていた。
  派遣会社で、システム派遣もやっている所だった。
  そこで、オファーがかかり、システム系の派遣に斡旋された。
  そして、渋谷に通うようになり、帰りは毎日、

  ピンクハウスの渋谷店に立ち寄り、
  ピンクハウスカフェに立ち寄る、帰る日々が続いた。
 
  そうしてるうちに、私も、古着でピンクハウスを何着か買ってしまった。
  しかし、現在のところ、アルバイトでたいしたお金も取れないため、

  沢山、帰るほどのお金は持っていなかった。
  
  ある時、女装しているあみちゃんという男性がいて、

  一緒に女装して外に出る事になった。
  私は、生まれてから、まだ、一度も、女装して外に出た事はなかった。

  その男性は、横浜の日吉に住んでいた。
  私は、その女装っ子さんの住んでいるマンションに、車で、

  ピンクハウス一式を持っていった。

  そして、家の中で、ピンクハウスに着替え、

  その女装っ子さんからメイクもしてもらった。
  私は、その頃は、メイクもやった事はなかったのでなにも知らなかった。

  そして、着替え、メイクが終わった。
  私は、てっきり、この家の中で写真だけ撮るのだと思っていたが、
  外に出るとの事だった。
  私は、ドキドキしてきた。
  前から、外に出てみたかったのだが、いざ、出てみようとすると

  非常にドキドキした。
  
  そして、私の当時乗っていた、トヨタのスターレットターボSで、

  横浜元町へ行く事になった。
  夜、うすぐらい横浜元町の丘の上を登っていった。
  丘の途中に薄暗いとても落ち着くバー調のカフェがあり、コーヒーを飲んだ。
  初めて、女装して、お店に入った。ピンクハウスを着て、

  カフェですごしている。
  最高の気持ちだった。ドキドキとしながらも、ときめいていた。

  その後、「港の見える丘公園」までいった。
  横浜の夜景を見た。
  初めての女装で、一番最初に来た所、それは、横浜元町でした。
  だから、私に取っては、横浜が女装の原点です。
  今も好きだし、思い出が深い所です。

  「港の見える丘公園」から、日吉の女装っ子さんの家に戻った。
  その日は、niftyserveでOFF会があった。

  ファッション系が好きな人が沢山集まり、
  夜は、女装っ子さんの家に泊まった。

  私は、心がときめいてしまい、夜はまったく眠れなかった。
  可愛いお洋服を着て、外に出たという幸せ感。
  新たな人生が始まった気がした。
  これからも、もっと頑張っていこうと思った。
  そして、憧れのピンクハウスを買うために、

  システム開発の仕事をしていこうと思った。
  最初は、派遣で仕事していた。
  次の年になり、1997年、隣の席だったある人が、

  その人は、フリーランスで会社に雇われずに
  仕事している事を知った。
  そして、半年後、私は、そのフリーランスをやっていた人の紹介から、

  会社を紹介され、
  私も、フリーランスで仕事していく事にした。
  これで、もっと沢山、ピンクハウスを買う事ができると思った。
  そう、フリーランスになった目的は、ピンクハウスを買うためだった。
  それが最大の目的。システムという仕事はどうでも良かった。
  とにかく、お金が欲しかった。
  可愛い服のために、ピンクハウスを買うために。

1997年
      この年は、ファイナルファンタジー7の初期版がプレイステーション版から

  発売された年だった。
  お金がない中、ピンクハウスを結構、買ってしまい、あまりお金もなかった。
  そんなところで、遊びに行くだけのお金はなかった。
  そんな頃、2月にファイナルファンタジー7が発売され、
  ゲームに夢中になる日々が続いた。
  休みの日も、外に一歩も出る事なく、ゲームをやっていた。
  数ヶ月、そうして、家にいる時間が続いた。
  数ヶ月経ち、お金もだいぶ溜まってきたので、そろそろ、

  新たなピンクハウスを何着か買ったりしていた。
  しかし、この時は、まだ、月20万程度しか、お金を取ってなかった為、
  ピンクハウスをばりばり買える余裕はなかった。
1997年7月
  ある事がきっかけて、金子功のワンダフルワールドのコレクションに

  参加する事になった。
  ニフティサーブのピンクハウス関連の会議室で知り合った女の子の

  お友達からの縁で、
  皆で、金子功のワンダフルワールドのコレクションへ参加する事になった。
  確か、会場は、六本木周辺だったと記憶している。
  会場に向かっていた所、金子功のコレクションに向かっていた人が数百名いた。
  皆、ワンダフルワールドやカネコイサオ、ピンクハウスのお洋服を着ていて、

  重ね着をしていた。
  壮観だった。

  1人のコーディネートで、30万かかっていたとしても、200人いるので、

  5000万円ぐらいなるだろう。
  実際には、50万〜70万ぐらいかかってるんではないだろうか?
      すごいものを見てしまった。
1997年9月
      仕事先で、席の近くに座っていたある男性から、会社に誘われた。
  彼は、ある会社で、フリーランスとして仕事をしている事がわかった。
  彼は、月50万ぐらい稼いでるらしい事だった。
  私も、フリーランスになれば、月50万を得る事が出来る。
  もっと沢山のピンクハウスのお洋服が沢山買えるようになると思った。
  私もフリーランスになる事を決意した。
  そして、彼が所属していた会社の面談へ行った。
  10月から、彼の所属していた会社で、

  彼と一緒にシステム開発の仕事をしていく事になった。
1997年10月
      彼と一緒に、派遣先の会社にて、システム開発の仕事をしていく事になった。
  仕事は非常に忙しく、毎日、22時か、23時とか、かなり大変だった。
  納期限が厳しく、1週間以内に仕上げなければならないとか、

  かなり厳しい仕事だった。
  しかし、50万を手にして、ピンクハウスを買う為には仕方がないと思った。
  そうして、1ヶ月が経ち、50万が入った。
  その後、毎月の如く、ピンクハウスを30万ぐらい買った。
  そして、ピンクハウスを着て、色々な所に女装して遊びに行った。
  そんな頃、メイク講座みたいなものが、どこかで開催されていて、

  参加して、メイクのやり方を正式に勉強した。
1998年3月
      windowsのパソコンを買った。
  実は、この前までまだ、windowsのパソコンは持っていなかった。
  パソコン通信のnihftyserveは、富士通のOASYSという

  ワープロソフトでアクセスしていた。
  この時、IBMのパソコン、アクティバを買った。
  そして、ホームページを作成してみる事になる。
  最初は、ホームページ作成ソフトのようなものは使わず、
  HTMLのソースをエディタで作成していた。
  そして、ホームページ「ERIKA’S HOUSE」を作成した。
  そして、ネットで使う名前を、月瀬恵理香とした。
  月瀬 は、1984年頃、好きだった子が使っていたペンネームの氏名だった。
  その結果、月瀬恵理香 となって、

  これは、現在、2023年まで変わっていない。
1998年3月
  初めてのロリィタ服を、原宿のプリティで買った。
  現在のangelic prettyは、その頃は、特に、

  オリジナルブランドを持っているわけではなく、
  原宿のラフォーレ原宿の地階(今の場所)で、セレクトショップを開いていた。
  その頃は、プリティで、baby, the stars shine bright のお洋服も扱っていて、
  私は、その頃は、プリティで、baby, the stars shine bright の

  お洋服を買っていた。
  そして、その頃、初めて買ったロリィタ服を着て、伊豆へ旅行へ行った。
  その頃は、ヘアスタイルも女装に完璧ではなかったが、

  地毛でロリィタ服を着ていて、ウィック等は被ってはいなかった。
1998年5月
      パソコン通信「niftyserve」で、数年前から交流していた、

  ピンクハウスを着ていた女装っ娘さんの、Sさんがいて、
  ゴールデンウイークに、神戸に遊びに行く事になった。
  神戸に行くのは、久しぶりの事であった。
  阪神淡路大震災前に一度だけ、神戸に行った事があった。
  
  それは、1884年12月の年末だった。
  霊能者、兼盛と一緒に活動していた頃だった。
  私は、兼盛から怒られて、行く事が嫌になっていった。
  そんな頃、関西に小旅行へ行ってしまった。
  その場所が、この神戸だった。
  神戸のアーケードの一角の居酒屋でお酒を飲み、ビジネスホテルに宿泊した。
  アーケードの一角の居酒屋にて、隣に座った見ず知らずの人に

  お酒を勧められて日本酒を大量に飲まされてしまって
  かなり酔っ払ってしまった。
  この頃は、まだ、それほど、アルコールに強くはなかった。
  そして、この勝手に行った旅行から、

  千葉で開かれていた修行の合宿へそのままいった。
  霊能者、兼盛にカンカンに怒られ、怒鳴られた。
  そして、合宿先から、一時、追い出され、惨めな思いをした。
  そして、とうとう、霊能者、兼盛と一緒に活動する事が嫌になり、
  霊能者、兼盛から去る事を決意し、東京へ帰った。
  数ヶ月後、実家に帰った。

  神戸に来たのはそれ以来だった。
  神戸は、すっかりあの頃とは変わっていた。
  だいぶ、近代化していた、お洒落なカフェバーも多数あり、

  こんなにお洒落な所だったとは知らなかった。

  そして、一番、感激した場所が、神戸・北野だった。
  ここは、一度、行った事のあるヨーロッパを思わせた。
  私は、虜になっていった。
  そして、毎日のように、神戸のお友達sさんに、洒落たレストラン、

  洒落たカフェバーなどに連れていかれた。
  私は、いつもピンクハウスを着ていた。
  信じられない日々が続いた。
  ゴールデンウイークだったが、とても楽しいゴールデンウイークだった。

  しかし、ここを去ると、また、次の日から忙しい仕事に戻らないといけない

  事には憂鬱であった。
  お金を取るためには、憂鬱だが続けなければならない。

1998年7月
       この頃、最近まで続いていた、Tちゃんという浦安に住んでる女の子

   と仲良くなった。
   彼女は、数年前まで、生存を確認した。

       (彼女と、2019年頃まで、メールでやり取りしていた。)
       彼女は、すでに、2010年初頭の頃から、結婚してしまっていたので、

       積極的に会う事はできなかった。
   私は、実は、現在まで、彼女の事が好きだった。
  でも、結婚してしまっている為、会う事は出来ない。
  2019年頃、彼女からディズニーのレストランで食事しないか?

      というメールが来たが、
  私は、都合が悪い事にして、断った。しかし、会いたかった。
  今は、後悔している。
  というのは、彼女は、たぶん、

      亡くなっているという事がある事からわかったからだ。(2022年1月)
  亡くなる事がわかっていたならば、会っておくべきだった。
  私は、今は、ダメだが、いつか、神様からの巡り会いがあり、彼女と、

      もう一度会いたいと思っていた。

       彼女、Tちゃんという浦安に住んでる女の子と、初めて会ったのは、
   蒲田であったピンクハウスの同人誌即売会だった。
   私は、Tちゃんは、髪が足の方まで長く、ピンクハウスを着ていて、

       ツインテールをしていた。
   私は、彼女と同じデザインのピンクハウスのサマードレスを着ていた。
   彼女は、色がサックス。そして、私は、赤だった。
   私は、気になって気になって仕方がなかった。
  
   ある時、とある事がきっかけで、一緒に写真を撮る事になった。
   彼女の方から、私に、「一緒に写真を撮りませんか」って言われた。
   私は、嬉しかった。そして、写真撮っただけでなく、色々な会話をした。
   そして、今度、お台場で撮影があるので、一緒に来ませんかと言われた。
   そして、お台場また、ギンガムチェックのサマードレスで撮影をする事に

       なった。
   今、考えると、これもシンクロニシティだと思った。
   偶然、同じコーディネート。そして、色違い。

1998年8月
      ゴールデンウイークに神戸に行ったが、再び、神戸に行く事になった。
  仕事はかなりつらかった。毎日、忙しい日々が続いた。
  この現場の仕事は作業が辛い為、辞める事にしたい事をエージェントに

      告げようと思っていた。
  そんな中、数日、延長して、神戸に滞在し、東京に戻った。
  そこの仕事は、終了となる。

1998年10月
      新たに派遣先の仕事につく事になる。
  仕事は、最初は、それほど忙しくなく、落ちいていたので、居心地が良かった。
  そして、今まで通り、50 万を手にし、ピンクハウスを定期的に買っていた。
  この頃は、ピンクハウスの多摩そごうで、よく買い物をしていた。
  その頃、ピンクハウスの多摩そごう店の店長さんと仲良くなり、

      コーディネートの仕方などを教えられたりした。
  しかし、どうやら、ピンクハウスの多摩そごう店は、

      来年の1月で閉店になってしまう事を知り、残念に思った。

1999年5月
       再び、神戸に行く。
  この頃、仕事先では、やはり、忙しい日々が続き、嫌になってきていた。
  そして、終了になった事を告げられる。
  そして、エージェントから突然、切られる。

  そうして途方に迷っていたところ、
  家の近くの定期的に通っていた居酒屋で、

      システム系の仕事を手伝って欲しいとい依頼を受けて、
  たびだひ、事務所へ行って、プログラムを修正したりしていた。
  そんな時、社員にならないかと言われ、ちょうど良いので、社員になった。
  手取りは、50万まではいかないが、30万だった。
  私は、まぁ、仕方ないかなぁと思い、引き受けた。
  そして、2000年問題のプログラム修正を主にやっていた。 
 
  そこは、社員も10人もいないような非常に小さなこじんまりした会社だった。
  会社の事務所は、事務所というよりも一軒家だった。
  一軒家の2階にパソコンが数台置いてあるだけだった。
  SOHOというようなものだった。
  社長じきじきに作業の依頼が来て、対処した。
  そして、たびだひ、かなり洒落た居酒屋に誘われて、飲みに行ったりした。
  社長は日本酒が好きだった。久保田の万寿と言う日本酒が特に好きだった。
  
  私は、粛々と、2000年問題のプログラム修正をこなした。

  その頃、Tちゃんという浦安に住んでる女の子のwebページを代わりに

      作ってあげていた。
  私が、webページを作成し、彼女に出来たwebページを提供し、

      彼女がwebページを運営した。
  また、htmlのコーディング手法なども彼女に教えた。   
  そして、彼女は、自分でも、htmlのコーディングが出来るようになっていった。
  彼女は、素質があるなぁ。たぶん、その後、IT業界へ就職したのだろうか?
      気になるところだ。