1984年
 1983年12月、私は、独自にある会館を借りて、講演会を開きました。
 とある雑誌に掲載されて、その為、100人ぐらい集まりました。
 あの時期、入場料取ってなかったのだけど、今、考えると、
 一人、1000円取っておいたら、10万になったなぁとか、思ったりします。

 「貴方は、まだ、早い」と霊能者に言われましたが、勝手に初めて
 しまいました。私の独自の判断、勝手にはじめました。
 その講演会で出会った、ある女性に恋をしました。
 あとで、ある女性に個別にお会いして、お話しました。
 その後、デートしたりもしていました。
 その時、彼女は、小説を書いていて、ペンネームに月瀬という名前を使って

   いました。
 私の月瀬恵理香の月瀬は、ここから来ています。 
 その時、彼女から結構な影響を受けました。

 どういうわけか、彼女とお会いする時は、いつも、雪が降り積もった日か、
 雪が降ってる時でした。
 新宿のNSビルの高層階にあるレストランに、彼女と2人で行きました。
 この頃は、まだ、私は、19歳で、彼女は、17歳でした。
 そういうわけでお互い未成年だったので、お酒は飲めませんでしたが、
 すっごく洒落たレストランで、幸せなひと時を過ごしました。
 高層階にいて、雪が舞い上がっている情景が忘れられない。

 彼女に告白もしました。
 でも、彼女は高校を卒業し大学生になった頃から、
 ちょっと変わってしまって、彼女とは自然に遭わなくなりました。
 それだけではなく、霊能者の活動があった事もあります。
 霊能者の活動により、彼女と会える機会がほとんどなくなり、

   ブランクが続きました。
 そして、1985年になってから、久しぶりに、電話で、

   改めて「好き」という事を告白したけど、フラれてしまいました。

 今となっては感謝しています。今、どこにいるのかはわかりません。
 ありがとう。

1985年
 年初、とあることがきっかけで、霊能者を離れる事になりました。
 3年間、一緒に活動していましたが、行き違いがあり、私は、離れる事にし、
 実家へ帰りました。
 その後、何もやる事がないので、仕事をせず、ディスコへ通い、しばらく
 ダンスに夢中になりました。
 原宿の表参道へ行き、ラジオカセットレコーダーで音楽を流して、
 踊っていた事もあります。
 その頃、女装まではいかなくても、結構、可愛い系の服装をして
 ました。
 数ヶ月経ち、とりあえず、何をやってよいかわからないが、
 とりあえず、工場系で、アルバイトをしてました。
 システム系が詳しいという事で、工場のロジック系のプログラム修正作業
 などをしていました。

 1986年
 引き続き、工場系のアルバイト。
 だいたい、1989年ぐらいまで、これが続きます。
 
   この頃、新約聖書をすべて読み、旧約聖書も、だいぶ読みました。
 仏教の般若心経に出会い、それで、とても何とも言えない気持ちに包まれました。
 
 1987年 -   1988年
 車の免許を取り、車を買い、今まで、行った所が無かった所へ
 行けるようになり、毎週、休日は、ドライブへ行くのが日課になりました。   

1989  年
  〇〇の科学を知る。
  とあるきっかけ、母の紹介から、講演会へ行く事になり、
  勉強してみる事になる。
  
  〇〇の科学の本を沢山、読みまくる。
  半年間で、出版されている本のすべて読んでしまう。

  その後、〇〇の科学へ入会願書を提出し、6ヶ月待機になる。
  その間、〇〇の科学の講演会へ何度か聴きに行く。
  ただ、ORについては、〇〇の科学では神様という事になっているが、
  その頃は、一塊の霊能者にすぎなかったし、
  私は、私と同じような能力のある霊能者の仲間ぐらいしか思っていなかった。

  6ヶ月待機期間に、絶対に読まないといけないノルマの本が

      〇〇の科学から提示された。
  その中には、
       ・生長の家の谷口雅春の生命の実相1刊から10刊
  ・GLAの高橋信次の3部作 
  ・キリスト教系、内村鑑三系の本
  私は、すべての本を読んだ。
  そして、1989年12月に、再度、入会願書を提出して、合格をもらった。
  
1990  年
      〇〇の科学に入ったが、勉強はやっていたが、ほとんど活動はやらなかった。
  伝道とかの依頼が来たりしていたが、無視して、逃げまくった。
  しかし、講演会だけは、聴きにいっていた。

  1990年3月、ORの幕張メッセ・イベントホールでの講演会に参加した時、
  いつもとは違う、異様なものを感じた。
  ORが講演会の中で涙を流して語っていた。
  この辺りから、私は、既に、〇〇の科学についてはいけないものを感じた。
  何かが違う。
  
  その後、私は、数ヶ月前から計画していたヨーロッパ旅行へ行く事になった。
  約2ヶ月、日本を離れ、ヨーロッパを旅行していた。

  イギリス-ドイツ-オーストリア-イタリア-ギリシャ

  初めての海外旅行、さらに、初めての飛行機、初めての国外脱出だった。
  さらに、いきなり、ツアーでも何でもなく個人旅行だった。
  いきなり、ぶっつけ本番。
  さらに、英語も学校英語だけで、まったく、まともに英語を理解できず、

  話す事もできなかった。
  結局、旅行中は、身振り手振りで意思を伝えた。
  色々とトラブルが発生した時は、言葉で伝えられないので非常に苦労した。
  しかし、どういうわけか、難があった時、誰かが助けてくれた。
  ギリシャのミコノス島で迷子になり、宿泊先へ帰れなくなり、

  路頭の迷っていた時、
  助けてくれたのは、日本人の新婚カップルさんだった。
  名古屋に住んでいる人で、今、    どうしてるのだろう?
      あの時は、本当にありがとうと、伝えたい。

  このギリシャ周遊の時には、不思議なシンクロニシティがあった。
  以下のような感じ

  1  ギリシャのピレウス港 から、ギリシャのミコノス島へ行く。
   ここで、日本人の新婚カップルと出会って、話したりする。
  2  ギリシャのミコノス島で迷子になり、宿泊先へ帰れなくなり路頭に迷う。
   ぶらぶらと、ミコノスタウンの中を歩いて、そこらじゅうの人に、
   「i’m lost」と言い、迷子になった事を言って回る。
   しかし、英語は伝わらないし、ギリシャ語もダメで、

   周囲から理解してもらえず、
   ミコノスタウン内を、3、4時間歩いて、探し回る。
   そうした所、ある観光ショップのお店で、
   偶然に、船の中で出会った日本人の新婚カップルと再会する。
   そのカップルさんは、英語が堪能で、通訳してもらう事になった。
   そして、店の店員さんから、

   日本で言うNTTのような所に問い合わせをしてもらって、
   宿泊先の住所がわかり、宿泊先のオーナーが、迎えに来てくれた。
   ※ その日本人の新婚カップルとは、これで終わりではなく、数週間後、
     ギリシャのアテネで偶然に再会する事になる
  3  ギリシャのクレタ島から、パロス島へ高速船で迎えっていた。
    日本人の商社系に勤務している人が乗っていた。
    その時は、声も一歳、かけなかったが。この人も、あとで、

    数週間後に偶然に、
    アテネで再会し、一緒に食事をする事になる。

    この時は、ただのすれ違い程度にしか思っていなかった。
  4  (シンクロニシティとは別件)
            パロス島で、長年、ヨーロッパに長期滞在している日本人と出会う。
    彼は、フランスの葡萄畑で一時的な仕事をし稼いで、

    普段は、イスラエルにいると言っていた。
    数日間、彼と一緒に過ごし、色々な話を聞いた。
    そして、パロス島にある日本人が経営しているレストランへランチを

    食べに行った。
    その日本人が経営しているレストランのオーナーさんは、
    ドイツでドイツ人と結婚して、ギリシャに移住したという。
    奥さんは、ドイツ人だった。
    
    そして、数日後、パロス島と一緒に過ごしていたヨーロッパに

    長期滞在している日本人と別れた。
    彼は、夕方の綺麗な夕日が沈む頃、ロドス島へ向けて、旅立っていった・・
    周囲には、静けさだけが残る・・夕日がとても綺麗だった。
    この情景は、今も忘れられない。
    今は、彼は、どうしているのだろう?

        5  数週間後、ギリシャのアテネに帰る。
    日本に帰る数週間前から、とあるゲストハウスに連泊していた。
    そこで、とある日本人バックパーカーさんと仲良くなった。
    そして、多数のアメリカ人とも仲良くなる。
    数日間、一緒にアテネを観光し、一緒に食事をした。
    そして、ある時、ある銀行の前に行った時に、偶然に、

    ミコノス島で会った日本人の新婚カップルと再会した。
    それだけでなく、クレタ島から、パロス島へ向かった時に

    一緒に乗船していた商社勤務の男性が声をかけてきて、再会した。
    そして、最終的に、皆で、ギリシャのアゴラの近くにある

    レストランでお食事をした。
    
    その後、ゲストハウスで一緒になった人は、イタリアへ向かった。

    彼と別れた。
         
   6   私は、再び、一人になった。 
    そして、日本に帰る間際、ギリシャのリガビトスの丘へ行った時。
    メッセージが入ってきた。
    「日本に帰ったら、システム関係の会社を探しなさい」
  
   
  ヨーロッパ旅行は、そうして終わった。
  ものすごく、私に取っては、勇気をもらった旅行だった。
  今、考えると、この旅行に感謝している。
  この旅行の体験で、フリーランスで仕事する勇気をもらっていた。
  ありがとう。

  日本に帰って、早速、仕事を探した。
  メッセージの通り、システム関係の会社を探した。
  そうした所、偶然に目にした会社に電話をかけて、すぐに面談する事になった。
  1週間かからず、3日ぐらいで採用が決まってしまった。
  帰国から1週間後、すでに仕事していた。
  旅行してから、まだ、1週間しか経ってなかったため、まだ、感覚が戻らず、
  かなり辛かった。

1991年から1995年
  省略

  この頃は、ほぼ、仕事に夢中でよく覚えていない。

  なお、〇〇の科学は、1994年の4月で退会した。
  その退会の発端になったのは、「方便の時代は終わった」という講演会だった。
  理由は、高橋信次系の本やミカエルの本を絶版にしたり、
  封印し、「読んではならない」とされたりした。

  今までこみあげていたものが限界点に達し、辞める事にした。

  その後、熱烈な信者の母親と、これについて大喧嘩となり、家を出る事にし、
  埼玉県志木に方に引っ越し、一人暮らしを始めた。

  よって、高橋信次を擁護してる私は敵になり、いつも喧嘩状態になった為、
  私は、外に出る事にした。

  いつも、顔を合わせる度に、この事で喧嘩になった。

    ※その結果、それは永遠に続き、現在でも、絶縁状態になっている。
   10年以上、母と会った事はない・・・。

   おそらく、二度と会えないと思う・・