私が小学生になるかならないかのうちに、母は『研究生』から『伝道者』へとエホバの証人としての立場を進めました。


エホバの証人には『奉仕活動』と呼ばれる、

1軒ずつ家のチャイムを押して出てきた人に聖書の言葉を伝えてエホバの証人の書籍や雑誌を無料で配るという作業があります。


毎月月末になると各伝道者は『奉仕報告書』に奉仕に費やした時間、配布した雑誌や書籍の数、再訪問の件数、聖書研究を司会した件数などを書いて報告する義務がありました。


私は暑い夏も寒い冬も雨の日も、週末土日の1時間半~2時間、母のうしろを付いて家から家へと歩いていきました。


『奉仕』の意味も分からなかったけれど、行かなかったら母から懲らしめを受ける、

それだけは嫌だ、ただそれだけの理由でした。


ますますエホバの証人としての活動に熱を入れる母に比例して、父からの反対はますます過熱していきます。


父は母に愛想を尽かしたのか、母に自分への気持ちが向かないもどかしさからか、

ある日リビングのカーペットを何気なくめくると、父宛ての手紙が隠されていました。


父の慌てた態度から、これはラブレターだとすぐに分かり、

小学校低学年ながら父の不倫を知ることとなりました。


母も父の不倫に気づいていたようで、

もともと母は父と結婚する気はなく、実家を出たかったのと私を妊娠したので結婚しただけだったので、

夫婦仲は極限まで冷え、離婚を視野に入れた家族会議も何回か両方の親を交えて行われました。


小学2年生の私は真夜中まで続く『家族会議』になぜか毎回同席し、

聖書研究の時みたいに母の隣でずっと正座して話を聞いていました。


ある家族会議の日、父は突然私に

ERIE、なんで毎年パパに自治会のクリスマス会に行けませんと言うのか言いなさい。』と質問しました。


この時私は

『エホバが悲しむことをしたくないからです。』

答えるのが模範解答なのは頭で分かっていたけれど、


本当は私だってみんなと楽しくクリスマス会したいのに、と強く思っていた気持ちが勝ってしまい、

なにも言えず泣き出すしかできませんでした。


あれが私が産まれて初めて示した『エホバへの反抗』だったんだろうなと思っています。


そんな状態が続くうちに、母がある日から病院に通うようになり、

『うつ病』と診断されたことを知ります。


母は病気をおしてでもエホバの証人の活動を続け、

正式にエホバの証人となるために『バプテスマ』を受けました。


その頃が父の反対が1番厳しく、

母は父が知っている開催される日付が違うという理由で私と妹を連れて久保会衆が所属する地区とは違う地区の大会へ参加し、そこで洗礼を受けました。


父はその日仕事で、夜遅く帰ってきて寝静まった家で真っ先に脱衣所へ入り、洗濯機の蓋を開けて母のバプテスマで使った水着がないかを調べたと後に聞きました。