自分は日本語圏におけるマルクス研究の歴史を全く知らないでマルクスの原文を読むことになったわけですが、過去の蓄積についてもその後いろいろ読む羽目になったのです。今やそこそこマニアになっているとも思います。
でも、そうした議論にはとても付き合ってはいられないと思うのは、そうした解釈の歴史が
「○○氏のマルクス解釈は根本的に間違っていて実は…」という主張とか、さらにそれに対して「いやいやそういう××さんの解釈が根本的におかしくて、実は…」というパターンになっているように見える。
その戦列に加わるのはバカバカしいよな…と思っていた矢先、ちょうど「自分はモノの見方を根本的に逆転させたのだ!」という主張で、傍から見ると(=ワタクシから見ると)、逆転になっていないじゃんと見えてしまう例が飛び込んできたので、これは自分も気をつけなくちゃと思って入るという次第。
その「例」について少し語ってみることにいたしましょう。
要するに、銀行は受け入れた預金を基礎に国債を購入するわけではなく、逆に、政府が国債を発行し、銀行がそれを購入することによって、預金が生み出されるというわけである。これは、預金→国債購入という捉え方を国債購入→預金という方向に、問題を捉える視点を180度転換するという意味において、まさに、コペルニクスないしアインシュタイン的な発想法の転換と呼びうるものである。
出典はこちら。
建部正義「MMT(現代貨幣理論)批判再説」(『商学論纂』第64巻第1・2号。2022年9月)https://t.co/kFhIuAvS3M
— 石塚良次 (@R__Ishizuka) October 25, 2022
note でも書いたことがあるのですが、… A → B → A → B → A → B → … と見做せる形の現象があった時に「A→Bではなく、B→Aなのだ!」という主張はあまり意味がない。
この例では、預金増と国債購入という二つの現象は絡み合いながら生起する現象なのだから、どちらを先と言っても仕方ないじゃん、というわけです。
MMTを知っている方はご存じの通り、問題は政府支出なのですね。
預金増を「預」、国債発行を「国」、政府支出を「S」とすれば、この系列は次のように書きうる。
… →「S」→「預」→「国」→「S」→「預」→「国」→ …
って。
で、これに対しても「別に国債が最初でもいいだろ!」という反論は可能でありましょう。
だったら預金増が先でもいいわけで(笑
しかしMMTは当然そのようなことはよく考えているのでありまして、政府支出を出発点にすることには理由があるわけです。
何しろ国債発行は無くてもいいわけで。
あってもなくてもいいものは本質的な議論においては関係ないんですよね。
そしてもう一つは(というか言い方を変えるだけなのですが)。
預金増と国債発行と政府支出のうち、政府以外のセクターつまり民間部門に影響を及ぼすのは政府支出による実物の移動であって、それに比べたら国債発行は準備預金との両替にしかなっていない(なお既にカネを持っている人へのベーシックインカムというオマケつき)。
そしてそのようなビューを採ることによって、インフレという現象の見え方が全く変わってくるのです。なのにこの理路がまったく通じていない。ご自分のコペルニクス的転回ぶりに惚れてしまうとなかなか修正が利かないんですよね。
ええと、MMTで考えたとしても、もし中央銀行が「インフレ」を容認し「インフレ的」な貸し出しを容認したら、そりゃ社会は「インフレ」に向かいます。それは銀行システムを介した政府支出じゃんとも見做せるわけで。
さてさて。
わたくしも建部さんたちの後を追ってマルクスのテクストに取り組んでいくつもりなわけですが、心がけたいのは論理の記号的な構造に意識的でありたいという気持ちだよな、ということを改めて思いました。
マルクスの価値論、貨幣論にもそっくりな問題があると思っているからです。
