告知ですが「資本論を nyun とちゃんと読む」を再開しました。今年はいよいよ資本論をじっくり再読していきたいのです。

 

 

 さっそく「実体」という言葉に深入りしてしまいましたが、これは資本論の始まりの節のタイトルに含まれる substanz という文字列に関しての話です。

 

 そのタイトルの原文はこうです。

1. Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)

1. 商品の二つのファクター:使用価値と価値(価値実体、価値量)

 

 ちょっと横道にそれるのですが、上記エントリについて「資本論を読むにあたって哲学的な前置きが必要になってしまうのか!」という趣旨のコメントが。

 

 というかですね、Substanz をタイトルに持ってくるのはアリストテレスからの王道なのですね。オントロジー(存在論)と呼ばれる領域。

 

 この「実体」は、ギリシア語の ousia(ウーシア)、ラテン語の substantia(スブスタンティア)で、アリストテレスを学んだ人は絶対に知っている。

 

 しかしわたくしがこれをゼロから説明するのはあまりも労力が…ということで日本語で紹介しているサイトを探したら、とりあえずこちらはちゃんとしていそうです。

 

 

 これから資本論を読もうという皆さんのほとんどは、このことを知らないと思うんですよね。

 

 だから「ちゃんと読む」にあたってある程度は説明しなければなりません。
 と言っても、哲学の議論に踏み込みすぎると資本論に帰ってこれなくなるのでバランスがむつかしい。

 

 そこでワタクシは、資本論第一章第一節の「ある一面」をお話ししようと考えました。

 

 この部分が「価格とは何か」についての話になっている、ということは皆さんもうご存じだとして。

価格、長さ、重さ…(度量衡)

 価格は「数字+単位」という形式で表されています。100ドルとか、55円、というように。

 長さはどうでしょうか?

 やはり「数字+単位」です。100メートルとか、一尺、というように。

 

 それ以外に「重さ」や「時間」や「温度」や「電流」もそうしたものとしてあらわされています。

いわゆる度量衡ですね。

 

 そう、資本論第一章第一節はこうした度量衡の話だよということなのです。

 

 度量衡には古代から「尺度のアポリア(難問)」と呼ばれる謎があります。

 

 たとえば「長さ」っていったい何でしょうか?

 

 まだ「長さ」を知らない人たちに「長さ」を説明しなければならなくなったとして、あなたはそれができるでしょうか?

「尺度のアポリア」とヘーゲル

 ヘーゲルもこの問題に正面から取り組んだ一人です。

 

 しかし、わたくしがそれをゼロから説明するのはあまりにも労力がかかるので、さきほど図書館で借りてきた熊野純彦の「へーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考」(筑摩書房)から引用していくことにいたします。

 さすが熊野、よいまとめだと思いました。

「尺度のアポリア」の標準的な理解については... このアポリアは、プラトンのメノン篇で提起されている〈探求のアポリア〉(80 D)(「いったいそれがなんであるか知らないものを、どうやって探求することができるのでしょうか。また、かりにそれを見つけ出したとしても、どうして、探求した当のものであると分かるのでしょうか、探求していたものがなんであるかまったく知らなかったとすれば」)を思わせる。(P.70)

 これは「現代科学」の根幹にかかわる問題でもあると同時に、科学(Wissenschaft)の出発点でもあるはずです。ヘーゲルは人類が知識の体系(これも Wissenschaft)を構築するにあたって、それはどのようなものなのかを考え、論じていたのですね。

 

 熊野の同じ本から引用します。

 

(…)ここではまず、尺度のアポリアはどのようなアポリアであったのかを、かんたんに確認しておこう。
 

・尺度の難問
 

 第九段落(nyun注ː『精神現象学』「緒論」)でヘーゲルが提起しているアポリアは、およそつぎのようなものである。みちすじのみを再構成してみる。
 『精神現象学』の叙述は、それぞれの意識形態におうじた「認識の実在性の探求と吟味」(Untersuchung und Prüfung der Realität des Erkennens) (76:26f)であるとも考えられる。吟味とはところで、吟味されるものに特定の「尺度」(76:28)をあてがうことによって可能となるものであるようにおもわれる。だが、自然的な意識の立場にとどまっている知を、学(Wissenshchaft 体系知)の見地へとみちびこうとするこころみの、そもそもの出発点である当面の場面で、いったいなにが尺度たりうるであろうか?吟味の尺度とは、「実在として、あるいは自体として承認されているものである」(75:35f)。つまり、それ自身は真理であること、真なる存在と一致したものであることが確認されているものであるはずである。ここでは、学の立場がそうした意味での尺度となることはできない。学の正当性は、実在としても自体としてもなお確認されていない。学が真なる学であることは未決の問題だからである。しかるに、およそ「そうしたものを欠いては、いかなる吟味も生じえないように見える(scheinen)」(76:3f)。

(P.19)

 

 ここで熊野は Wissenshchaft を「知」「体系知」と呼んでいますね。

 引用を続けます。

 ヘーゲルはこの事態を「矛盾」(Widerspruch)(76:4)とよぶ。ヘーゲル自身は、なにとなにが「矛盾」しているかをはっきりかたっていない。とりあえずすこしだけことばをおぎなっておくとすれば、「矛盾」とはここで「吟味」の必然性(必要性)と、その不可能性が対立しているということであるとおもわれる。

 資本論でも Widerspruch は登場しますね。
 さらに引用を続けます。

 つまり、こういうことである。一方では、知の吟味がなされなければならない。「学は、それが登場してくるそのときには、それじしん一箇の現象である」(71:14f)。学はさしあたりは(ひろく承認された体系知としてではなく)たんにひとつの「知」として、その他のさまざまな知、もしくは場合によればむしろ多様な〈おもいなし〉とならんで立ちあらわれる。学が、たんなる現象ではなくまさに学として確証されるためには、現象するさまざまな知が吟味されなくてはならない。--だが他方、知の吟味は不可能であるようにみえる。登場しつつある学は、それとの「一致あるいは不一致」(Gleichheit oder Ungleichheit)によって知の真偽がかくていされるような尺度としては、まったく認証されていないからである。

(p.19-20)

 「ひとつの知」というのはドイツ語の ein Wissen です。


 先ほどから何度も出てくる Wissen-schaft は、無数の「ひとつの知」がひとまとまりの有機的な体系(システム)となったものであり、それは現在わたしたちが「科学」と呼んでいるものになるでしょう。

 

 さて、ついでにこれから資本論に取り組む方に向けて、二つ指摘しておきます。
 資本論の冒頭の文章は
「現代社会において ”富” は、無数の ”一つの商品” の集まりとして現れている」

 という形をしています。

 ヘーゲルは次のように論じていたわけですね。

「現代社会において ”知の体系” は、無数の "一つの知” の集まりとして現れている」

 

 同じです\(^o^)/
 これが一つ。

 

 もう一つは「Gleichheit oder Ungleichheit」です。
 熊野は「一致あるいは不一致」と訳していますが、「同じなのか、それとも違うのか」とも訳せるところです。

 

 もしピダハン族(比較の概念を持たない人たち)と暮らすことになったエヴェレット氏が、ピダハンたちに「長さ」概念を説明しなければならなかったら、いったいどうすることになるでしょうか?

 

 たとえば二本の木の枝を並べて「これとこれは同じ長さであると言います」「それとこれは長さが違うと言うんだよ」みたいにやるしかない。その説明が成功するか失敗するかは別として、私たちが「長さ」を知っているならば、それは「これとこれは同じ長さである」とか「それとこれは違う長さだ」という言葉の意味を了解してるはずですね。

 

 度量衡の前提には、「同じ」あるいは「同じだということにする」だとか、同時に、「違う」あるいは「違うことにする」といった知識や行為が可能だという事態がある。

 

 資本論でマルクスがやっているのはこれとまったく同じで、(富の要素である)商品Xが他のAと「同じ価格であるということにする」とはどういうことか、をキチンと吟味することに他ならないというわけ。同じはドイツ語の gleich ですが、A=Bという「方程式」は Gleichung というように、この単語も重要語として現れます。

 

 熊野の本に戻ります。

 ヘーゲルはこの困難にたいして、みずからその解決の方向を提起する。その方向をあたえるものが、「意識の命題」への着目にほかならない。
(p.20)

 

 度量衡の測定は、初めから測定者の意識がかかわっているという話になるわけです。現代的ですね!

 

  さて次回ですが、今回の測定の話と強く関連する Gegenstand(対象)とか Gegenständlichkeit(対象性)という言葉を説明しようと思います。

 

 冒頭に紹介した資本論の節のタイトル、Wert(Wertsubstanz, Wertgröße)、価値(価値実体、価値量)というのを簡単に言うと、われわれが商品を「対象」として観測するときには「価値」という「サブスタンツ」が見いだされ、それは「量」を伴っているという話をするよ!いうことだよ、ということを説明したいのですが、果たしてうまく書けるかな?