ミキハウス社長の「交通事故に比べたら原発は安全」発言について、以下の記事
ミキハウス社長の
「交通事故は50年で100万人以上が死んでいるが原発事故ではそんなに死んでいない」
発言にネット上で批判相次ぐ (産経)
http://topics.jp.msn.com/wadai/rocketnews24/column.aspx?articleid=1171797
産経のページですが、記事そのものは提携先のロケットニュースから持ってきたみたいです。
木村社長の発言に対するtwitterでの反発の声が紹介されてますが、問題は次の部分。
現在もまだ原発事故は収束しておらず、世の中では反原発の運動にも多数の参加者がいることはもちろん、子どもへの放射能の影響について心配をしている親たちも多い。彼らの感情を考えると、この発言は不用意だったといわざるを得ない。
微妙なニュアンスの違和感がしませんか。
要は「感情」の問題にしてるんですね。この書き方では。
社長の発言がまずい理由を、感情の問題に矮小化しています。
逆を言えば、社長の発言に対する反発は「感情の問題」と言いたい訳です。
そうではないですよね。
「交通事故のリスク」と「原発事故のリスク」という本来比べるべくもないものを対置し、
原発の被曝リスクを軽く見積もった上で、容認を迫る。
この論法自体の倫理的問題を問うているんですよ。反発の声は。
感情の問題ではないんです。
このリスク受忍論は、結局は両方のリスクの受忍を迫る論法です。
「交通事故のリスク」はむしろ拡大される方が、受忍を迫る側には望ましいんです。
だって交通事故の死者が100万人から200万人に上がれば、相対的に原発は2倍安全になりますもの。
そういう卑劣な考え方を、さも人々の味方面をしてうやむやにしたいのが今回の記事です。
ゼロリスクを求めるのは断じて「身勝手」でも「利己主義」でもありません。
実現可能かどうかは別に、ゼロリスクを求める姿勢からはより安全な社会が生まれます。
リスク受忍論を口にする人とそれを擁護する人は、所詮リスクを押し付けて得をする立場の人と、
そういう立場に媚を売って得をする人です。
両者は「危険の足し算」しかしません。