偉そうなことは言いません。
今日は役所に電話する事もなく、デモに参加する事もなく、
ネットに書き込みもせずに一日過ごしました。
朝からオンラインゲーム。
こんなにゲーム浸りになったのは久しぶりです。
おかげで僕の三頭身のガンタンクも、ずいぶんレベルが上がりました。
外は雨ふり。
湿気のせいですね。不愉快なのは。
寝る前に、ふと思ったことだけ。
少々くどくなりますので別に読まなくて良いです。
大飯再稼働決定:おおい町民、思い複雑 (毎日)
http://mainichi.jp/select/news/20120617k0000m040065000c4.html
以前の記事ですが、見出しの通り立地自治体に住む人にとって、原発の稼動は死活問題。
社会の仕組みそのものを過去に遡って問おうとは、新聞はしません。
そしてそのまま、何食わぬ顔で再稼動が進められる。歪んだ構造はそのままで。
「お前らはこれからも原発引き受けろよ」と言うのと同じ。
立地自治体に住む人の多くは、それを受け入れる。
嫌々ながらの人も、誇りを感じながらの人も。
僕ら都市部の人間は「電気が足りないと困るから」と、それを容認する。
株主総会見たでしょ、あの欲ボケ共の姿を。
そして彼らの姿は、そのまま僕ら自身の姿でもある。同じ論理で廻ってる社会に適応してるんだから。
これって、嫌な話ですよね。
社会構造の問題をさておいても、単純に不愉快を感じませんか。
上記の事は結局、「利益が有るならリスクは容認されるべき」とする「リスク受忍論」が根底にあります。
世界にゼロリスクは無いから、と言う人はよくいますよね。
この論理に感じる不快さが何処から来るのか、たまたま読んでた中川保雄『放射線被曝の歴史』の中に
非常に納得できる説明がありました。
一部を引用します。
『(前略)原発などの放射能の危険性は、放射能自体が危険であることについては何も触れられず、他の危険性と比較して相対的な大きさの違いに矮小化されている。その結果、放射能から引き起こされる危険を受忍させようとする。線量当量限度被曝させられた一般人のリスクは、鉄道やバスなどの公共輸送機関を利用したときのリスクと同程度だから、後者のリスクと同じように容認されるべきである、とICRPは厚かましく主張する。誰も好んで放射線を浴びようとは思わない。ICRPは、勝手に人々をヒバクさせておいて、それは容認されるべきレベルであると言って抗議した人を逆に攻撃する。
これは、強権をほしいままにすることができる権力者の論理である。原子力発電に反対する人びとは、それによる放射線被曝をなくすとともに、可能であるなら原発以外の危険もすべてなくしてほしいと求めている。その願いからは、より安全な社会が生み出される。しかし、ICRPのこのリスク受忍論からは、安全な社会など夢想だにできない。原発よりも危険なものがあると問題をすり替えた上で、その危険と過小評価した原発の危険とを比べさせ、結局のところは両方の危険を容認させようとする。原発推進派は、危険の加え算しかしない。現実に存在する諸々の危険は、放置されるどころかむしろ拡大される。その方が原子力産業は相対的に安全な産業となるのだから。政府や原子力産業は、絶大な政治的・経済的な力によってリスクの受忍を強制してきたが、ICRPのリスク論はその強権支配をいっそう正当化する。』
(中川保雄 『放射線被曝の歴史』 1991・技術と人間社 P141~142)
「原発推進派は、危険の加え算しかしない」
そしてまた利益とリスクの関係にしても、
利益は一部の人間に集中し、リスクは社会的弱者に押し付けられるのが現実。
吐き気がする考え方です。
でもゲロを吐く資格って、少なくとも僕にはなさそうです。
皆さんはどうですか?