近づいてはいけない | 働きアリのブログ

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所要があって午後から出社したある日のこと。


「えー?それって地震のせいなの?」
「それで、いつ支払ってくれるの?」
「あなたねー。私は私のお金を戻してくださいって言ってるの」


空いた電車に途中駅から30代くらいの背の高い男性が乗り込んできた。


ドラマ等でよく銀行員が着ているようなチャコールグレーに細いストライプの入ったスーツ。
細身の身体に細い眉と薄い唇。


細めのプラチナカラーのメガネフレームが高い鼻にかかっている。
髪はていねいに七三に梳かしてあり、ヘアワックスで固めてある。


乗り込んでくるなり彼は、頓狂なほど高い声で携帯電話に言葉を叩きつける。
その声の高さに、後ろに女性が居るかと探してしまったくらいだ。


彼は迷いもせずにシルバーシートにどっかと座り、重そうな手提げを席の横に置いた。
空いた左手は長い指でひざのあたりを弾いている。


「ちょっと待ってくださいよ。だから、いつになるかを聞いているんですよ」


延々と
「金を支払え」「いつだ」「地震のせいなのか」を繰り返す。


やがて車内が混雑してきた。
私の横に老夫婦が座っていたが、とうとう奥さんのほうは彼の騒音に耐えかねて、隣の車両に移ってしまった。


ご主人のほうはニヤニヤしながら、彼を見ていた。
好奇心丸出しにして彼を見ていた。


「だからねー。あなた、私のお金を払ってくださいって言うんですよ」


彼がひときわ大きな声を出して、ついに席から立ち上がった。
「もも上げ走」陸上部の私はかつて、そんなトレーニングをしたが、そんな風に、
地団駄を踏むように彼の足はバタバタとその場を走る。


ついに、同じシルバーシートの最後の一人が一般席に移動した。


「地震のせいだっていうなら、あんたのところの社長も死んじゃえばよかったのにね」
「あんたも地震で死ねばいいのに」
「あんたが死んだら、私が行ってお祝いしてあげますよ」



だんだんエスカレートするその内容にいい加減にしろと言いたくなった。


私の隣のご主人も
「ちょっと言い過ぎですよね?あれ」と私に同意を促す。
私だけじゃない。


そんな周囲の視線を感じたのか、彼は席に再び腰掛けた。


「じゃぁ、いつ?」「払って」まだ繰り返している。


彼が電車に乗り込んでからもう30分経つのに、会話は一向に進んでいないようだ。



「ずっと同じ事の繰り返しじゃないですか」
そうですね。



隣のご主人に返事をしたが、自分で言っておいて、ゾクっとした。

彼はどこかのコールセンターのような所へ電話しているようだが、
普通、ここまでこじれる客は、担当を変えて、『責任者』なる人が登場し、
話を進めるものではないのか?


そう。この30分、ずっと同じことばかり繰り返すのだ。


「ちょっと、言ってくる」
たまりかねて隣席のご主人が、彼に突撃した。


シルバーシートまで行くと彼の肩を叩き、
「ちょっと電源切ってくれませんか。ここ、シルバーシートですよ」
と諌めた。


彼は一瞬、キョトンとした顔で男性を見上げた。
それもつかの間。


また続けて
「だから、あなたね・・・」と電話にとりついた。


「通話、禁止でしょう?」


無視された。



「いつだって聞いているんですよ」

なおも彼は続ける。


隣の車両から、奥さんが心配そうに覗いている。
がぜん、ご主人は、強気に出た。
もしかすると親子ほどの歳の差かもしれない。


「みんな、あんたの電話に迷惑してるんだよ」
なぁ、と周囲を見回す。


彼は全く、意もせず、電話にかじりついている。


みんなというのは、さっき会話をした私を含むのかもしれない。
行きがかり上、仕方がないので私もシルバーシートの彼の横まで行った。
彼は私のことを見もせずに、マシンガントークを撃ち放ち続けている。



私は彼のひざの上で神経質に盛んに動く左手を見た。
手前に人指し指を曲げると
「だから、私のお金ですよ」
向こう側へ弾くと
「いったい、いつなんですか」

人指し指を弾いた後は必ず細い指を全部揃えて伸ばす。
「それは地震のせいですか」




大きな災害があると、それに便乗して様々な企みが行われる。
もちろん善意の行動も、根も葉もない流言も。


彼は、普段、どんな生活をしていたのであろうか。
彼にとって地震はどんな位置付けだったのだろうか。

彼の中で地震はどんな妄想をかき立てたのだろうか。



私は慌てて、隣席に居たご主人を元居た席に連れ戻した。


ご主人は
「全然応えないんですな」と自分の一喝が通らなかったことを嘆いた。


「気がつきましたか?」


「若いくせに頑固だ」


「違いますよ」
私はご主人の目を見て言った。


「彼の電話に電源は入っていませんよ」

そう。普通、通話中であれば点滅するはずのランプも消えていたし、携帯電話の画面は真っ暗だった。



「え?そうなの?」

うん。と大きく頷き、小さい声で隣のご主人に警告した。


「あれは近づいてはいけない」

『近づいてはいけない』自分自身にも言い聞かせた。


興味本位で近づいてはいけない。色々な人が電車に乗ってくるのだから。

彼の『会話』は終点まで続いていたが、なぜだか、電車が止まると同時に、
彼は黙ってしまった。


何事もなかったかのように、彼は人ゴミに紛れて行ってしまった。
そう。黙ってしまうと何事もない人になってしまった。