23時。
自宅駅まではぎりぎり日付が変わらないが、玄関を開けるころには確実に午前様。
まー、来た電車に乗るっきゃない。と腹をくくって酔客と一緒に始発駅で電車を待つ。
列の先頭には、ピラピラした服を重ね着した小柄で色白の若い娘と大柄でダサイ学生風の男がいちゃついて立っていた。デート帰りか。
男はさかんに姉ちゃんに触る。姉ちゃんも嫌がらない。まー、許せる範囲のお触りだし。
電車が来るまでの間、皆、見ないようにして待っていた。
そのうち、嬌声が上る。
「えぇ~。いややぁ~~」姉ちゃんの肩に回していた腕を男が絞めるしぐさをする。
「お前って女が悪いんだからなー」
「痛いってばぁ~~」
なら、離れりゃいいじゃん。とちら見をした。
「お前がそうさせるんだろぉ?」と男が笑いながら腕を絞め上げ、小柄な姉ちゃんが足をバタつかせる。
悪ふざけだろうが、ちょっとやり過ぎ。
「うちのせい?いやだぁ。」姉ちゃんが振りほどくと、今度は男が腕を掴み、引寄せる。隣の男性の鞄に姉ちゃんがこける。
「あ、すいません。」男が謝る。
「いえ」男性が鞄を引込める。
あ、普通には謝れるんだ。ちょっと心配だったが、ま、普通の奴だ。私は読んでた本に視線を落す。
次の瞬間、男が思いのほか高い音域の大声を上げる。
「お前が謝れよ!お前がぶつかったんだろ?俺が謝ってお前、知らん顔かよ!どんだけ常識ないんだ!」
私も周囲も驚いてカップルを見る。
男が小柄な姉ちゃんの身体をゆさぶって、激しく非難している。
姉ちゃんは、あーとか、うーとか言っているが言葉にならない。
「お前のお陰で俺はひどい目にあってるんだよ。なんで俺が謝らなきゃいけないんだよ!お前が今すぐ土下座して謝れよ。ほら!」男が無理に姉ちゃんを座らせようとして、長い髪を掴んでいる。
最近言われているデートDVだ。
駅員に通報するか?直接止めるか?男の体格には太刀打ちできない。
しかしながら、この手の通報はいざ、駅員を連れてくると姉ちゃんが何でもないと言わされるので、通報した者の勘違いで終ってしまうケースがある。どうしようか?
「いや、いいですから」鞄にぶつかられた男性はそそくさと言い残して列を離れ、改札のほうへ向かって行ってしまった。
男は「本当にごめんなさい」と男性に丁寧に頭を下げ、その一方で姉ちゃんの腰に回した手は引寄せたままだった。
男性が行ってしまうと、また男は姉ちゃんにベタベタを始めた。
「全部、お前のせいだからなー」
「嫌」
「もっとこっち来いよ」
「いや」
「ほら」
周囲の者は私も含め、眉をひそめるものの、姉ちゃんへこれ以上の被害がないことで、またおとなしく電車を待つことにし、このカップルに視線を投げるのを止めた。
間もなく、電車がホームに到着するから白線から下がれというアナウンスがあり、視線が列の先頭へ戻った。
働いた者のくたくたの身体を座らせるべく、電車がホームに進入し、停止した。
ドアが開き、列がガラッと崩れる。
あのカップルからは離れて座ろう。
私はとにかく、この男と同じ方向へは行かないでおこうと思った。
皆、そう思っただろう。
先頭のカップルは当然同じ方向へ行くはずだった。
ところが。
男はすぐに左へ。
男の後から電車に入った姉ちゃんは男とは反対の方向へ進み、男女は離れて座った。
姉ちゃんは私と同じ右側へ。
すぐに男が姉ちゃんのほうへ来て、姉ちゃんの前に立った。
「何やってんだよ?お前。俺の隣だろうよ」
あ?こいつまたキレ始めるぞ。
「嫌だ」姉ちゃんが低く答える。さっきの甘え声と同一人物とはとても思えない声だ。
怒っているんだろーなー。
頼むから他でやってくれよ。皆、迷惑だ。さっさとこんな男と別れちまえよ。
男が構わず姉ちゃんの腕を掴んで立たせようとする。
「いや、言うてんやろ!ボケ!」
腹の底から捻るような低音が響く。
姉ちゃんが男の腕を逆に引っつかんで、立ち上がる。
男の腕を掴む手は気が付かなかったが、節くれて大きな手だった。
留めているうちに、二の腕を見た。
ピラピラした服から力コブと筋肉の筋が見えた。
「ひつこいんや。何べん言わすねん!どつくでぇ。」
男が豆鉄砲喰らった。
いや、車両に居た全員も。
姉ちゃんは兄ちゃんだった。
「何や?文句あるんか?あるんなら、やるか?ゴルァ?お前、どんだけ頭悪いねん。」
「いや、ノン子、一緒に座ろうって」なおも男が姉ちゃんの手をとろうとする。
「は?ふざけとんのか?さわんなって。」
「機嫌直して。ノンちゃん」
「アホ、ノンちゃんやあらへん!そばに居るなや。気分悪い。下りろや」
声のトーンがどんどん昂まる。これは本者の男だ。
「え?」
「え?じゃないて。はよ、下りろや!」
get out!ってことか。
姉ちゃんが外を指さす。
「下りろ言うてんじゃ、ボケ!さっさと目の前からいねや!」
促されて、男がしぶしぶホームに立つ。
姉ちゃんは素知らぬ顔でイヤホンを耳にかけ、座って下を向く。
男が必死にホームから姉ちゃんを見つめる。
ドアが閉まる前に一回、姉ちゃんが「っけ」と言った。
スルスルと電車が動き、ホームに男が残っていた。
何度か姉ちゃんの携帯電話がマナーモードで光っては消えていた。
4~5回目だったか。
鳴り続ける携帯電話の画面を見て眉間に皴を寄せると、姉ちゃんは折りたたみ式の携帯電話を反対側にへし折った。
グギッという音に周囲の視線を再び集めたが、化粧ポーチから鏡を取り出し、巻き髪や前髪をいじり、平静そのもの。
恐るべし。ノンちゃん。
30分位してから着信音がして別の携帯電話を取出し、話しながら、電車を下りていった。
「もっしぃー。ノンだよ。うん。あ、ヒマ。帰るところぉ。ほんまぁ?、今から行くぅ・・・うん。うん」
さっきと声が別人。
悪い女。女じゃなくって・・・男か?