會津八一(1881-1956)が初めて奈良を訪れたのは1908 明治41年で、大正になると憑かれた様に何度も奈良を訪れたことは前に書いたが、当時奈良を訪れた人々の観光事情は必ずしもよく分かっていない。今のように拝観料を払うと簡単な説明書をもらえて絵葉書や写真などがいろいろと買えるようにはもちろんなっていなかったが、カメラが今のように普及していなかった当時、旅の土産、拝観の資料として絵葉書や写真が売られていたようだ。八一も旅先ではよく絵葉書や写真を買い、知人への手紙には便箋代わりに絵葉書を利用したことも多かった。また知人が奈良に行く時にはお金を預けてまで絵葉書を買うことを頼んでいる書簡が残されている(1921年1月17日 吉武正紀宛書簡など)。

 

当時の奈良には何人もの絵葉書屋・写真家がいたようだが、有名なのは猿沢池の辺りに店を持っていた工藤利三郎(精華 1848-1929)で、八一も出入りしたがだいぶ年上なので写真についての話はなかなかかみ合わなかったようだ。しかし人柄については好感を持ったようで 『自註鹿鳴集』 に「そらみつやまとのかたにたつくもは きみがいぶきのすゑにかもあらむ(そらみつ大和のかたにたつ雲は 君が息吹の末にかもあらむ)」といった歌が遺されている。自註に「この歌は、この老人のつねに好みて壮語するを諷したるなり」とある。

 

では当時の絵葉書や写真はどのようなものだったのだろうか。奈良で探せば見られるかもしれないが、今の私には無理なので、書かれたものから想像すると、建物や仏像の記録写真といった感じで印刷もあまりよくはなかったようだ。

 

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ところで、こうした明治末から大正時代の奈良の観光事情を會津八一自身が語っている記録があるので紹介しよう。『大和古寺風物誌』(1943年)で知られる亀井勝一郎と1953 昭和28年3月に対談した時の記録である(「奈良の思ひ出」NHKラジオ 『會津八一全集』第十二)

 

會津 ええ。それは個々の人々の個々の関係、個々の願いでもって許可される。どこに行っても喜ばれない。寺は取り込んでおりますからと言って、すげなく断られます。それで、今の案内記とかね、おっしゃいますけれども、写真も売っておらんのです。絵葉書は私はできるだけ集めた。それはね、京都の便利堂が各寺々の葉書をね、六枚一組のを二組とか三組とか売ったものです。それはよほど私には便利でしたね。どこに行っても絵葉書屋にそれがあって、それと案内記というのは一冊十銭というのがね……。(p.355)

 

會津 あれは工藤という写真屋が猿沢池の端にあって、淡島寒月の親友だというので訪ねましたけれども、その人は、西南の戦争に従軍してね。熊本の戦争に行って、そして戦争が終って、一時金をもらって、それで写真機械を買ったという人なんだ。で、私とはだいぶ年令が違うんだ。だから私の言うことなんか聞くものじゃないし、小バカにしてましてね。そして二六時中酔っぱらっている人でしたからね。痛快なやつだけれども、なんか私なんか子どもみたいなことですから、あそこの写真ないかここの写真ないかと言ったって、それはないわって、君の焼付けはみんな古くなって、と言うと 「これは古美術を写したんだから古くなければ、焼付けも古いのは将来国宝になる」 なんていう、そういう酔っぱらいでね。しょうがないんです。(p.355-356)

 

こうした状況の時に會津八一が出会ったのが小川晴暘(せいよう)で、その結果単なる記録写真だった仏像の写真が初めてその美を表現する芸術写真へと変貌したのだった。この辺の事情を上の対談で八一自身が語っているので、まずそれを紹介しよう。

 

「ある時私が散歩しておったらね、玄昉頭塔のキャビネで焼いたものを額縁に入れて店に出しておった人がいる。奥さんが奈良の名物など売っておられたんです。そこに行ってですね、この写真はだれが写しましたと言うと、うちの主人が写しましたと。主人に会わせてくれと。そして、「君、奈良の美術というものを、新しい写真で写すということは、非常に大切なことだし、世界的に大切なことだと思う。君、ひとつやれ」と言って、私がすすめたんです。それは小川君ですよ。小川君はね、その当時、朝日新聞の記者であった。それを辞職してその仕事を始めた。だから小川君としては非常に大決心でやったんです。ところがなかなか寺々で喜ばないんです。東大寺へ私が紹介して、三月堂の写真を撮り始めにようやりました。それは私の第一流ではないんですが、後の話ですよ。是非撮らせてくれと言ったらね、東大寺では断られたんです。押し返して何度も頼んでようやく。というのはね、仏像というものは学者の参考品ではなく、宗教の礼拝の対象ですから、そういうご研究の資料は、寺は許可できないと言うんです。それで私はね、試みに二枚ばかり撮ってね、それをどういうことになるか試みにあれして下さいと言ったら、非常に寺では反対が多かったのに、押し切って清水という何代か前の管長さんが、新しい人ですね、頭の。それで特にやったんです。それを焼き付けてね、三月堂の中で売ったところが、非常に売れるんです。一枚一円で売ったんです。私が翌年東大寺に参ったところがね、東大寺で私に御馳走したいと言う。非常に金が入りましてね。東大寺の会計はね、三万円で維持しておったんです。ところがどうも近頃少し二千円ぐらい欠損があるというんです。写真のおかげで二千円がとんとんに行きますということでね。私は二の膳付きで御馳走になったんです。その東大寺から法隆寺へ今度はね、わが寺でもやったがあなたの方もどうかと。そしたら、法隆寺ではこれより先、いろいろとありましたでしょう、いろんな写真が。だから、金堂の中の本尊さんと薬師さん。それから玉虫厨子、それからなかんづく百済観音、百済観音をやったのは、だいぶ遅いですね。けれどもあれは室生寺をやった後に、今度はあれをやったんです。初めはそういうわけなんです。」(p.356-357)

 

店先の頭塔石仏の写真に感心した會津八一が小川晴暘を誘って仏像の撮影をすすめ、頭塔や滝坂道の石仏、さらには石切峠付近へと古い石仏を撮影してやがて東大寺へ。渋る東大寺を説得して三月堂の仏たちを撮影。その写真が好評だったので次は法隆寺へと、八一の助言と晴暘の技術とセンスが生み出した新しい仏像写真が次々と生み出されていくようすが語られているが、これは全集所収の当時の八一の書簡で裏付けることができる。

 

「玄昉の頭塔も旧臘いよいよ名跡保存会の方から指定となりて世上一般に注意せらるゝように相成り候。十一月に来りしときは其存在をさえ知らざりし絵葉書屋も新に其写真を撮影して店頭にかゝげ居り候。これ亦た奈良の一変化とも称すべく候。尚お若きてごろの一人の写真師ありて、近々小生指導のもとに石仏類少しく撮影せしめんと心がけ居候。」(1922 大正11年1月3日  市島春城宛 「全集」 第八)

 

「本日は小川晴暘(奈良博物館横諌山方)という写真師を伴いて地獄谷に赴き、春日石仏三種を撮影せしめ候。其他此人のすでに撮影したるもの各方面にわたりて数種出来致し居り候えども、選択等につきて初心らしく候間、目録に認めて奈良内外の注意すべきもの十数種を示しおき候間、今後の旅客は為めに多少の便益を感じ候ことなるべしと信じ居り候。滝坂の寝仏、十輪院の魚養墓の類も次第に店頭にあらわれ候べし。」 (1922年1月4日 市島春城宛 「全集」 第八)

 

「今日正午から写真師を伴て洞か楓の石仏を撮影せしめ候ところ、更に他の絵葉書店の小生の指導を受けんとするものあり。此所頗る得意に御坐候。」(1922年1月5日 市島春城宛 「全集」 第八)

 

この頃は毎日近所の写真屋さんをつれて奈良付近の石仏の撮影に歩いて居る。その写真屋は洋画家で、文展に出たこともある人だ。その人のうつした僕の写真は僕が近来会心のものだが、それはあげられない。(1922年1月8日 大泉博一郎・沢田正巳宛 「全集」 第八)

                                                 

「コノ石仏はかねて工藤がつくりたるコロタイプの絵葉書にて御覧に入れたることありしように存じ候えども、これは小生踏査の際のものにて、左は弥勒、右は薬師と存じ候。銘文はなく候えども、奈良付近の石仏中にては面白きものの一つにて候。小生の司(指)導のもとにて南都の石仏の写真はもはや五十種も出来申候。いづれ帰京の際は全部一纏めとして高覧に供することもあらんかと存じ候。」(1922年2月8日 市島春城宛 「全集」 第八)

 

 

 

 

 

頭塔の石仏の写真の縁で1922 大正11年1月に始まった小川との石仏撮影は1か月もすると「五十種も出来申候」ということになった。やがて東大寺や法隆寺をはじめ奈良の古い仏像を次々と撮影していくことになる。写真の『小川晴暘の仏像』(2010年 毎日新聞社)には日本の石仏の写真が一枚もないのが残念だが、晴暘の写真の例としてこの写真集から2枚借用した。どちらも新薬師寺の仏像で、香薬師像と伐折羅大将像である。また私の撮影した滝坂の石仏の写真も参考までに紹介した。

 

黒を背景に、光線が生み出す陰影によって表現される仏像の全体や部分の美しさは見るものを感動させてやまない。小川晴暘の写真は、ギリシア彫刻の写真集を参考にして生み出されたと言われるが、晴暘の三男小川光三は次のように書いている。「大きな黒い羅紗の布をバックに仏像の美しさを捉えた写真は評判となり、来訪する多くの美術愛好者に混じって、美術史研究を志す学者や研究者、著名な美術家の姿もあった。」(「父、小川晴暘と飛鳥園」)

 

最後になったが、小川晴暘(1894-1960)は兵庫県姫路市の出身。東京で写真家丸木利陽のもとで写真を修得したが、画家志望の夢を捨てられずに精進して1918年に文展に入選した後朝日新聞大阪本社写真部の社員となった。1921年に會津八一と出会い、翌年新聞社をやめて写真家として独立、精力的に仏像を撮影し、奈良に飛鳥園という仏像をはじめとする文化財の写真専門店を開業した。1924年には古美術研究の専門誌『仏教美術』を創刊するなど、その後半生は朝鮮半島や中国・東南アジアを含む仏教美術とまさに一体となった生涯だった。なお晴暘についての伝記的な文学作品に島村利正の『奈良飛鳥園』がある(1980年 新潮社)

 

 

 

 

(『會津八一全集』 など、引用文の漢字の一部は常用漢字に、仮名は現代仮名遣いに変更した。)