1908 明治41年 に初めて奈良の古寺を訪ねた會津八一は、大正になると憑かれたように何回も古寺巡拝を重ねると同時に古代の歴史と文化、特に仏教とその美術についての理解を深めていった。

 

東大寺南大門南方の頭塔についても、的確な知識を持ち、石仏について学生に拓本による学習を進めていたようすが吉池進の『會津八一伝』(1963年)に書かれている。

 

1921 大正10年8月の市島春城の手記からの引用だが、「会津八一の居を訪うて此頃奈良遊歴中拓したる幾枚かの拓本を見る中に玄昉塔の十三仏あり。年代不明なども古雅なる彫刻なり。会津の語る所に拠れば、(中略)(頭塔には)近来塀を作り人の入るを許さず。殊に付近に巡査の派出所あり。これに入りてその拓本を作るは甚だ危険の業也。実は自分が見張番をして、一行の学生を墳墓の背後より入らしめ辛うじて拓したるもあるべし。右は各々高さ五尺に満たざるものなり。土地の好事家も拓本を欲して得ず。会津等の拓本を見て羨怨措かず、二十金を以て買わんと申入れたりとか。」

  

「私は春城翁の手記を調査して居る時に、此の一節を興味深く読んだのである。先生がこの玄昉頭塔の拓本に次の如く題しているのをみた。「奈良清水町有一方墳、草木叢茂世称玄昉僧正墓、盖誤東大寺要録曰寺僧実忠為国家於新薬師寺西野建立土塔此墳即是也、世俗以土塔為頭而巳、昭和二十年四月二十六日 秋艸道人観並題」」

 

カメラが今のように普及していなかった当時、歴史や美術の研究には拓本が大きな役割を果たしていた。そして拓本に書かれた「この方墳を玄昉の墓というのは誤りで、東大寺要録にある僧実忠が建てた土塔が今は頭塔と言われているのだ。」という會津八一の1945年の書込みを読むと、八一が頭塔について的確な判断をしていたことが分かる。

 

1921 大正10年10月から翌11年の2月にかけて、八一は奈良および九州への長い旅をした。これは要職にあった勤務先の問題で体調を崩した八一への市島春城の配慮によるものであった。春城は早稲田大学運営の要職にあり、八一とは遠縁の関係にあった。全集を読むと、八一は毎日のように春城にあてて旅先から手紙を書いている。

 

これらによると、八一は奈良でも九州大分でも石仏をよく見ているので、おそらく関心は仏像とともに石仏にも多くあったのではないかと思われる。次の手紙は1922 大正11年1月9日に13枚の絵葉書にペンと毛筆で書かれている。便箋代わりの絵葉書は頭塔の石仏で、それぞれの石仏についての観察や感想がこまごまと書かれている。(全集第八)

 

「奈良上清水玄昉頭塔の森全景。

世ニ伝エテ玄昉頭塔トイウノミ、或ハ玄昉以前ノモノナルベキヤヲ知ラザル十数個ノ石仏ノ存スルヲ以テ、最モ注目ニ値スルモノナリ。

弥陀三尊なるべし。

降魔の釈迦なるべし。

様式簡単、印相も諸仏共通のものなるが故に、直に何仏とも決定しがたしと雖も、釈尊とみるを以て最も穏当なりとなすべきか。

頭塔石仏中此の種の様式にあるもの最も多し。霊山説法の釈迦とみるべきに似たり。

これ菩提樹下の釈迦像なるが如し。菩提樹下の釈尊は蝕地の印に住するを例とすれども、かくの如く説法の印にあるもの印度に於ても往々にしてその例あり。左方の人物ハ地神なるべし。

これ釈迦の帝釈窟中に於ける説法の図なるべし。左に立てるものは司楽神なり。

此種三枚ハ仏伝ニ材ヲ取レリ。他ノ諸仏浄土変ニ取ルモノト区別スルヲ要ス。

釈迦の身体を描出せざる涅槃像なり。これ本邦に於て類例なき図様にして実に印度古代の制式に合す。

頭塔ヲ発掘シテ捜索セバ此種ノ仏伝図ノ尚オ発見セラルベキヲ予想ス。

釈迦三尊なるべしとおもわるれども、図様後代のものに似ざるところあり。

弥陀三尊なるべし。」

 

これ等の説明はもちろん石仏の実物や拓本の観察を踏まえてのものだろうが、大きく分けて釈迦の生涯(仏伝)に関するものと阿弥陀如来など諸仏の浄土変(浄土変相、極楽浄土などさまざまな浄土の姿)に関するのがあるとし、なかには姿を描かずに象徴で示す古式の表現があるとの指摘などは注目されよう。また別の書簡だが次のようなものもある。大正10年12月5日に九州別府より春城宛に絵葉書3枚に書いものの一部である。

 

「(前略)さて又奈良の玄昉頭塔につきては既に申上げたる通り古制の石仏を以て近時問題と相成り居り候が、その石仏のうち三尊の形式なるものに本尊と脇侍菩薩とが同根に発したる三茎の蓮座上に坐し居るもの有之、それが法隆寺に蔵する橘夫人の厨子中の三尊仏と頗る類似の形態なるが為めに、本邦にては他には例なしとして往々比較され居り候ところ、小生先日当地方にて実見したる石仏中には正しく一所に根せる三茎の蓮華上に打座せる者有之候。(よしこれは支那印度に於ては稀ならずとするも)たまたま本邦に石仏として二個ありて、其一は玄昉の死せる地方、其一は玄昉の葬られたる所というに至りては甚だ奇と存じ候。この間何物かの繋縁無かるべからずと存じ候。特にこの種の印度様を帯びたる図取は必ずや玄昉等の唐より見習い来りしものに外ならざることも略々論無き所と存じ候。御高見如何。」

 

頭塔の石仏の中に「同根に発したる三茎の蓮座上に坐し居る」三尊仏があるが、これは大陸に渡った僧が伝えたものではないだろうかといい、法隆寺の橘夫人念持仏との類似を指摘している。最初の写真は西第1段中央にある石仏だが、はたして八一の取り上げた石仏とおなじだろうか。

 

 

 

 

発掘調査後、復元公開された頭塔に建てられた説明板の解説を次に紹介する。上の写真も説明板の一部である。

 

「方形基壇の上に方形七層の階段状土壇を築いた頭塔は、第一・三・五・七の奇数段四面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていた。現在までに44基のうち28基が確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩像が表されている。そのうち13基が昭和52年に重要文化財の指定を受け、1基が郡山城の石垣に転用されている。そのほかの14基は、史跡整備にともなう一連の調査により、平成11年までに新たに発見された。

 

石仏は第一段では四面に各5基ずつあり、各面中央に仏浄土を表した大型石仏が配置されている。東面が多宝仏浄土、南面が釈迦仏浄土、西面が阿弥陀仏浄土、北面が弥勒仏浄土を表した図像であることから、第一段は四方四仏を中心にした配置と考えられる。

 

頂上の第七段四面は、盧舎那仏浄土を表した同一図像の石仏(北と西)で統一されている。第一段と頂上段における石仏配置には、四方四仏に対して盧舎那仏が上位にあることを示す曼荼羅的構想があったと考えられる。

 

そのほかの石仏には、仏本生説話像(北3段)、法華経の二仏並坐像(東5段)、涅槃経の仏棺礼拝像(西1段)、維摩経の文珠維摩対論像(東1段)、華厳経の善財童子歴参像(北1段、南1段、西1段)として解釈されるものがあり、奈良時代の仏教説話美術として注目される。

 

仏菩薩に見られる豊満な表現は、天平盛期の特徴をよく示し、記録にある通り神護景雲元年(767)に造立されたと考えられる。

 

頭塔石仏は、数少ない奈良時代の石仏として極めて貴重な遺例であるが、諸仏に対する盧舎那仏の優位性を示すその立体曼荼羅的配置は東大寺盧舎那大仏と並ぶ天平仏教の壮大な理念を示す遺構としてさらに重大な意義がある。」

 

発掘調査の結果、本来44基の石仏が配置されたことが判明したが、これまでに確認されたのは28基で、このうち発掘調査により発見されたのが14基だという。頭塔の完成時から16基の石仏が失われていることになる。石仏の種類や配置について、頭塔建造当時の奈良仏教のありようを示しているという指摘はなお課題だろうが、この調査よりはるかに昔の頭塔石仏についての會津八一の観察は、仏教美術研究者として成長した八一の姿をよく示しているように思われる。 

(引用書簡の漢字の一部は常用漢字に、仮名は現代仮名遣いに変更した)

 

 

 

 

(写真は頭塔からの夕日。會津八一と頭塔という話題では、写真家小川晴暘との出会いがあるが、それは次回に。)