そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智惠子はもとの智惠子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

 

* * * * * *

 

「その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆(か)を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。」 

 

「私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。」

 

 上の引用はいずれも智惠子没後約2年に書かれたよく知られている「智惠子の半生」という高村光太郎のわりと長い文章からである。(1940 昭和15年9月『高村光太郎全集』第9巻所収 詩は1939年2月23日作)

 

 

 

 

 

 

 

 「智惠子の半生」で光太郎は「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或いは万人の爲のものとなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智惠子に持っていた。」と書き、また「彼女がついに精神の破綻を来すに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾撞着の悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。」とも書いている。

 

 私がこの長い文章を読んで感じるのは、ここには「美術家」光太郎の喜びは語られていても、「妻」智惠子の喜びは語られても、「美術家」智惠子の喜びが語られてはいないということである。「美術家」智惠子が「夫・美術家」光太郎から喜びをもらったことがはたしてあったのだろうか。

 

 「猛烈な芸術精進」「絵画を熱愛した」智惠子の絵画について触れた個所では、どこか冷たい突き放した態度、批評家の眼を感じさせる。そこには「美術家の先輩」として、「夫」として、ともに悩み、励ましあうといった温かい心を持った光太郎の姿が感じられないのは私だけだろうか。光太郎は「自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。」と書いているではないか。

 

 智惠子は精神を病んで入院したのちに切紙絵の世界を創造した。光太郎はそれをみて大変感動し、助力を惜しまなかったという。「彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きている。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしそうであった。私がそれを見ている間、彼女は如何にも幸福そうに微笑したり、お辞儀したりしていた。」と書いている。

 

 病院で智惠子の看病をしていた看護婦でもあった姪の宮崎春子は、「伯母様は押入からうやうやしく紙絵作品を出してお目にかける。「ほう」と伯父様は美しさにおどろきながら御覧になる。傍で伯母様は目を細めて嬉しげに、何度も何度もお辞儀をしては伯父様を見ていられる。」と書いている(『智惠子抄』1980年版付録)。美術家夫妻の素敵な姿をみる思いがする。これが精神を病む前の智惠子と光太郎の姿であったらと思う。

 

 

 

 

 ゼームス坂病院は写真で見ると洋館風2階建ての明るい感じの建物で、智惠子の病室は2階だった。きっと海(東京湾)が見えたことだろう。坂の名になったゼームスは明治の直前に来日したイギリス人で、日本の海軍創設に貢献したという。その邸宅の跡がこの病院の前にあたり、ゼームスはおそらく海の眺めが気に入ったのだろうと思う(今は見えないが)。現在は大きなマンションの一部となり、出入口の大きな石に説明がある。

 

 病院の跡地には今は会社の建物が建ち、1995 平成7年に品川郷土の会によって建てられた詩碑は、ほぼ智惠子の背丈と同じという磨かれた黒御影石に光太郎の直筆原稿の詩が彫られている。誰かによっていつも碑の前にはレモンが供えられているのだろうか。前に訪ねた時にもあった記憶がある。春になるとすぐ傍に立つ桜の花びらが碑に散りかかることだろう。智惠子の写真に桜の小枝を飾りレモンを置いたと光太郎の詩にある。JR大井町駅東口から北へ、ゼームス坂を下る光太郎の姿を想像しながら同じ道を私も歩いたのだった。

(引用文は常用漢字と現代かなづかいに改めたが、詩と人名は原文のままとした。)

 

 

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