先に大阪御堂筋の彫刻ストリートの作品をいくつか紹介したが、その一つヘンリー・ムーアの人体像は歩道の建物側にある唯一の作品と書いた。実はここが真宗大谷派難波別院の南御堂だが、いつのまにか正面の出入り口にホテルが建っているのに驚いた。

 

 この南御堂の前、今は御堂筋の広い道路になっているあたりこそ松尾芭蕉終焉の地で、境内には芭蕉の句碑が建っていることなどについてかつてこのブログに書いたが、今回改めて南御堂にお参りして境内の芭蕉の句碑などを再見したので、松尾芭蕉終焉の前後のようすについて少し調べてみた。

 

 芭蕉は1694 元禄 7年10月12日にこの地で亡くなったが、旅先の大坂でなぜ急に亡くなったのだろうか。芭蕉は有名なわりにはその生涯に謎が多いようだが、これもその一つだろう。

 

 僧文暁が書いた 『花屋日記』(1810 文化 7年刊)は、弟子のいさかいを仲介するために大坂に来た芭蕉だったが、体調を崩して南御堂門前の花屋仁左衛門宅の裏座敷で弟子たちの介抱を受けたがよくならず、ついに亡くなって琵琶湖南端の義仲寺に葬られるまでのいきさつを弟子たちの手記や親族の書簡などを編集してまとめた内容となっている。

 

 この 『花屋日記』 は岩波文庫で読めるが(1935年初版刊)、解説(小宮豊隆)を読むとなんと偽書(文暁の創作) として知られているという。岩波文庫に偽書と分かっている著作が入っているとは知らなかったが、それほどよくできているということだろうか。事実を確かめるために同文庫には 「芭蕉翁終焉記」(其角)、「前後日記」(支考)、「行状記」(路通) といった弟子たちの手記も収録しているので、芭蕉臨終前後の事情はほぼ知ることができる。

 

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 支考の 「前後日記」 によると、芭蕉は1694 元禄 7年 9月末より10月の初めにかけて下痢に苦しみ、5日に花屋の裏座敷に移った。7日には向井去来らの弟子たちが芭蕉の枕元に集まり、8日には 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」 の病中吟、その後10日には遺書 4通を書き、11日には死を覚悟して、「ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみきて、此後は左右の人をしりぞけて、不浄を浴し香を焼て後、安臥してものいはず。」 という状態となり、翌12日についに亡くなった。12日のようすは次のように書かれている。

 

「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蝿のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別れとは今だに思はぬ也。此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曽塚の舊草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし。」

 

 「花屋日記」 は創作だけあって、瀕死の師匠の枕頭に侍る弟子たちのやりとりや混乱したようす、受け答えする芭蕉のようす、やがて病状がすすみ重苦しい雰囲気の中で死を迎えるさまがまるでみたように書かれている。

 

 さらにすごいのは芥川龍之介の 「枯野抄」(1918 大正 7年)で、師匠の唇を濡らす弟子たちの人となりや心の内を巧みに描いて、芥川一流の鋭い人間観察を読ませてくれる。作品の冒頭に 「花屋日記」 の一節を載せているのでこれを読んでいることは間違いないが、同日記を上回る創作であると言えよう。もっともこの作品は1916 大正 5年12月に亡くなった夏目漱石とその場に集まった弟子たちのことが執筆の動機となっているというのが定説のようだが。漱石が亡くなる前後のことは小宮豊隆の著作 『夏目漱石』 に詳しく、小宮も漱石の死に立会った弟子の一人だが、後に 「花屋日記」 の校訂・解説を担当したのも何かの縁だろう。

 

 話がいささか脱線したが脱線ついでに付け加えるならば、旅先の大坂で急に亡くなった芭蕉は 「終焉記」 などを読む限り旅の途中での予期しない体調の変化が原因だったらしい。激しい下痢のために食が取れず、急激な衰弱による体力の消耗が命を縮めたのではないだろうか。私の経験からすれば末期の胃がんか大腸がんの急な進行による体調の急変ではないかと想像した。

 

 さて多くの弟子たちに見守られてあの世へ旅立った芭蕉だが、棺に入れられた遺体は淀屋橋の辺りから船に乗せられて淀川を遡り、伏見からは陸路を膳所(ぜぜ)に向かった。琵琶湖の南端に位置する膳所の義仲寺の風光をかねて愛していた芭蕉は墓所を其処に決めていたという。

 

 其角の 「芭蕉翁終焉記」 には、「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく睡れるを期として、物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来・乙州・丈艸・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛・予ともに十人、こももる雫、袖寒き旅ねこそあれ、たびねこそあれと、ためしなき奇縁をつぶやき、座禅・称名ひとりびとりに、年ごろ日比たのもしき詞むつまじき教をかたみにして、俳諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを、今さらにしつ。東南西北に招かれて、つゐの栖を定めざる身の、もしや奥松島・越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞て驚くばかりの歎ならんに、一夜もそひて、かばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の思いくばくぞやと、鳥にさめ鐘をかぞへて、伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬礼義信を尽し、京・大坂・大津・膳所の連衆、被官・従者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳来るもの、三百余人也。」 とある。

 

 14日の葬儀には多数の門人が参列し、18日には同寺で43人の弟子たちによる追善の俳諧が催された。其角(晋子)の 「なきがらを笠に隠すや枯尾花」 の発句をはじめその全部が其角の 「終焉記」 に記されているが、まことに俳聖芭蕉にふさわしい光景だったろう。

 

 その生涯に旅を重ね、旅先で51歳の命を閉じた松尾芭蕉は、死んでもなお旅をして安住の地に眠ることになったと言えよう。

 

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南御堂の境内に入ると左手奥に庭園風の一角がある。そこに芭蕉(植物)を背後に芭蕉の句碑と現代俳人の句碑が建っている。芭蕉の句碑には (写真上)

 

    旅に病てゆめは枯野をかけまハる はせを

 

と死の床での句が彫られ、碑陰(裏)には 3人の俳人の名が刻まれていた。芭蕉の150回忌にあたる1843 天保14年に建てられたという。

 

 ここ南御堂では毎年11月の芭蕉忌には盛大に法要と句会が催されているそうだが、芭蕉の句碑の傍に建つ2つの句碑はその句会と縁の深い現代俳人のもので、「金色の御堂に芭蕉忌を修す」(写真)は山口誓子(1901~94)、もう一つ 「翁忌に行かむ晴れても時雨ても」 は阿波野青畝(1899~1992)でいずれも1990 平成 2年に建てられた。 

 

 

  

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