写真は東京 千住大橋下のテラスの大きなコンクリートの壁に描かれている蕪村の絵の写しで、江戸 深川の芭蕉庵を舟で出た松尾芭蕉(1644~94) はここで上陸して 「おくのほそ道」 の旅に出たという。1689 元禄 2年3月27日のことで、今の5月16日にあたる。

 

 千住大橋は芭蕉の時代にすでに架かっており、千住宿は日光(奥州)街道の江戸を出て最初の宿場として賑わっていた。

 

 

 

 

 

 大橋の右岸荒川区側の素戔嗚(すさのお)神社に江戸時代の句碑が建っていた。没後126年の1820 文政 3年の建立だがちょっと読めそうもない。しかし傍に建つ説明の碑によると 「おくのほそ道」 の千住の箇所が刻んであるようだ。

 

 

 

 

 大橋を渡ったところには 「おくのほそ道」 の冒頭を刻んだ 「奥の細道矢立初めの碑」 があり、そこから旧街道を少し歩くとこの写真の句碑が建っている。

 

   鮎の子のしら魚送る別哉

 

 傍の説明を読むと、芭蕉が旅立つときに詠んだのはこの句で、「鮎の子」 は見送りに来た弟子たちを、「しら魚」 は隅田川の貴重な魚で自分のことを意味するという。

 

 「おくのほそ道」 は旅日記そのままではなく、芭蕉が推敲を重ねて完成させたものだから、「鮎の子の…」 が初案で後に 「行く春や鳥啼き魚の目は涙」 に変えられたという考えに基づいているようで1974 昭和49年に建てられた。

 

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。」

 

 「おくのほそ道」の書出しの一節を読むと、この旅に対する芭蕉の深い思い、決意をあらためて思う。この旅は芭蕉にとって最後の大きな旅であり、その 5年後に大坂で亡くなった。