甘樫の丘の東に飛鳥きっての古社飛鳥坐(います)神社が鎮座している。

この神社の神主家の姓が飛鳥ということからもその由緒が想像できる。

ここには石碑がいくつも建っているが、三つの歌碑を紹介しよう。

 

 

 

 

 

 

大君は神にし坐(ま)せば赤駒の 匍匐(はらば)ふ田井を都(みやこ)となしつ

 

(天皇は神でいらっしゃるので、赤駒が腹ばう田を都としてしまわれた。 中西進訳)

万葉歌碑で、万葉学者犬養孝が万葉仮名で書いている。

詞書に 「壬申年之乱平定以後 大伴御行」 とある。 巻19-4260

 

大君は天武天皇のことで、壬申の乱後に即位して権力を確立したことを詠っている。

次に続く歌 「大君は神にし坐せば水鳥の すだく水沼を都となしつ」 とともに大変有名。

 

犬養孝(1907~98)は文化功労者で万葉故地の景観を守る活動を続け、

犬養揮毫の万葉歌碑は130基を越すと言われる。

1979 昭和54年に昭和天皇が甘樫の丘に登られたときに犬養は案内役を務め

2000 平成12年には明日香村に犬養万葉記念館が開館した。

 

 

 

 

 

 

 

みもろは人の守る山 もとへはあしひ花さき すゑへは椿花さく 

うらくはし山そ 泣く児守る山  八一

 

(三諸は人が大切にする山 ふもとには馬酔木が花をさかせ 頂には椿が花をひらく

いつも心打つ山よ 泣く児を守るように人々が守る山よ 中西進訳) 巻13-3222

 

三諸山は神が降臨する山ということで、ここでは雷の丘をさすと考えられる。

飛鳥古京を守る会によって2011 平成23年12月に建てられた。

 

「八一」 は會津八一(1881~1956)のことで、傍らに立つ説明板には

八一の書から字を集めてこの歌碑を造ったとある。

「八一書」 とは書けないので 「八一」 となったのだろうが、

これでは八一の歌という意味になってしまわないだろうか。

木の説明板はやがて朽ちてしまう。

100年、1000年後の人はこの碑をどのように思うだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

ほすすきに夕ぐもひくき明日香のや わがふるさとは灯ともしけり 超空

 

民俗学者・国文学者・詩人・歌人などいくつもの肩書を持つ

折口信夫(しのぶ)(1887~1953)の歌碑、釈超空は号で1957 昭和32年に建てられた。

 

折口は大阪で生まれたが、祖父が飛鳥坐神社の神主で

1900 明治33年に初めて神社を訪ねた後しばしば飛鳥に遊んだといわれる。

歌は折口が故郷と考える飛鳥によせる思いが素直に感じとれるように思う。