神奈川県小田原市は北村透谷(1868~94)の出身地であり、また墓地のあるところでもある。 透谷は日本近代文学史に島崎藤村らとの文学活動で大きな足跡を残し、また自由民権運動や平和運動での独自の活動が知られている。


 小田原の透谷に関係した場所にはこれまで何回か訪ねたことがあるが、最近同地を歩いて驚いたことは、かつて訪ねた記念碑の位置が変わったり、今あるものも変遷を経て現在地にあることを知ったことだった。あまり動きそうもない石碑や墓地も時には移動することがあると実感したのだった。

 

 

 

 

 透谷の生誕地  

 

 北村透谷は1868 明治元年12月に北村快蔵の長男として小田原に生れた。祖父は小田原藩医玄快である。生誕の地は、JR小田原駅南の国道R1を東京方面に少し行った右側にある仏壇センターのあるところで、手前のローヤルホスト(ファミリーレストラン)との細い道を曲がるとすぐのところに石碑が建っているはずだった。 ところがその後行ってみると仏壇センターはなくなって小さなマンションが建ち、石碑は記憶にある場所に見あたらなかった。不思議に思って通りかかった人に尋ねたと ころ、「マンションが建ったのでこっちに移ったのですよ」 と、国道に面した敷地の一角に建っている石碑を教えてくれた。生家の敷地はある広さがあるのだから場所が移ってもいいわけだが時間の経過を感じたのだった。(初めて訪ねたときはローヤルホストの建つ場所は服装学院だった。)

 石碑は等身大の細めの白御影石で、「北村透谷生誕之地/堀越英書」 とあり、裏面に 「昭和二十九年五月十五日建之」 と書かれている。堀越英は透谷の長女である。碑の足元には簡単な説明板が出来ていた。(出生当時は唐人町、現在は浜町3丁目)

 この場所に建っていたどんな家で透谷は生れたのか知らなかったが小田原文学館で初めて生家の写真とスケッチを見ることが出来た。同文学館は1994 平成 6年に明治の政治家田中光顕の別邸だった建物を利用して開館したもので、それまでは小田原城の天守閣に若干の透谷関係資料が展示されていただけだった。

 文学館で雑誌 『民衆』 の 「北村透谷号」(1918年5月 No.5)に掲載された写真とスケッチを見ると、生家は草葺きの小さな建物だが、左手に式台つきの玄関があるので武士の家の格式を持っていたといえる。おそらくこの近辺には同じような武士の家が建ち並んでいたのだろう。写真を撮った年月は不明だがこの家はいつごろ姿を消したのだろうか。

 なお、文学館の展示資料に 「御家中先祖并親類書」 というのがある。幕末の1862 文久 2年に藩に提出したもので、その中に祖父北村玄快が書いた北村家の先祖書が含まれている。透谷研究の貴重な資料であろう。

 

 

 

 

 

 透谷の記念碑  

 かつては小田原城の正面入口を入って左手の奥、観光案内所の前に小山に支えられるように大きな板状の石を組合せた記念碑があった。正面に 「北村透谷に獻す」 とあり、左下には 「萬物之聲と詩人」 など全部で10の透谷の作品名が2列に書かれている。右下には 「明治元年小田原に生れ/同二十七年五月東京に没す」 とあり、その右上の石の狭い側面に 「昭和四年五月十六日建之」 と彫られている。透谷没後35年の命日に建てられたことになる。

 この碑は透谷の最初の記念碑だがこれまで建碑の事情などについては何も知らなかった。それが文学館の展示資料を見てだいぶ分かってきた。この記念碑は 「北村透谷顕彰碑」 といい、建碑は福田正夫(後述)らが中心となり福田の義弟で彫刻家の牧雅雄が碑の設計にあたったという。文字は島崎藤村が書き、建設にかかる費用の大半は美那子未亡人と藤村が準備して、旧藩主を祀る大久保神社境内に完成したのが1929 昭和 4年 5月だった。この碑が小田原城内に移転したのは透谷没後60年の1954 昭和29年であるが、形状が現在と全く同じとすればずいぶん手間がかかったことと想像される。

 ところで文学館に島崎藤村が書いた顕彰碑建立についての神奈川県への答申書が展示してあった。昭和 3年 9月の日付だが、そこで藤村は、「透谷の人物や作品にはやや世間の常識を逸することがあってもそれは詩人の純粋な魂の発露です」 といった趣旨のことを書いて建碑の了解を求めている。若くして自殺した透谷にたいする偏見が当時はあったのだろうか。それにしても碑を建てるのになぜ県の了解を得なければならなかったのだろう。そして、透谷の没後に親友であった透谷の存在をこの世に遺すことに尽した藤村の姿をここにも見ることが出来た。

 では、この記念碑が最初に建てられた大久保神社はどこにあったのだろうか。現在は小田原駅西方の小峰山にあるが、昔は小田原城の天守台跡地にあったという。そこで調べてみると、大久保神社が天守台跡地に創建されたのは1893 明治26年10月 だが、明治32年には城跡が御用邸になったので翌33年に現在地に遷座したという。しかし、 1923 大正12年の関東大震災で御用邸が壊滅状態になってやがて廃止となったのに従い、城跡への立入り禁止も解かれて徐々に城跡が現在のようになってきたことが分かった。

 大久保神社でいただいた古い絵葉書に、「明治二十六年旧小田原藩領内の士民藩祖大久保忠世の遺徳を追慕し旧小田原城天守閣趾に社殿を造営し忠世の英霊を奉祀す」 「明治三十二年神社社地宮内省御用邸となるに際し小田原城趾の西字小峰山腹に社殿竝付属物を移転し、明治三十三年十一月遷座奉安したるものなり」 とある。 以上の経緯からして、北村透谷の最初の記念碑は現在の大久保神社の境内に建てられ、25年後に小田原城内に移されたことになる。ところが この記念碑は、小田原城の敷地整備に伴い 2010 平成22年12月に小田原文学館の敷地内に移されて現在に至っている。複雑に石を組み合わせた大きな石碑が2度も移転することになろうとはだれも想像できなかっただろう。

 

 

 雑誌 『民衆』 の碑 
 私が初めてこの透谷記念碑を訪ねたときにはすぐ傍に雑誌 『民衆』 の碑が建っていた。しかし1989 平成元年10月に大久保神社近くの城山に移されたとのことだった。 雑誌 『民衆』 は、透谷の記念碑建立に尽力した福田正夫が中心となった雑誌なので最初は記念碑の傍に建てられたのだろう。

 碑は、枠に囲まれた右横書きの 「民衆」 という大きな文字の下に、「われらは郷土から/生まれる/われらは大地から/生まれる/われらは民衆の/一人である/民衆創刊号福田正夫の言葉」 と書かれている。裏面に、「雑誌“民衆”は福田正夫が主唱し、小田原を郷土とする若い詩人たちを同人として大正七年一月小田原で創刊された。民主主義思想の上に立ち、自由平明な表現をもって民衆の生活を歌った同人の作品は詩壇に新風を与え、民衆という言葉が社会全般に現われ、民衆詩、民衆詩人という言葉が生れた。大正十年一月第十六号を出して終ったが、“民衆” は自由詩史上に大きな足跡をのこした。碑面の字は表紙の題字で福田正夫が書いた。昭和三十三年秋 井上康文」 と解説されているので、雑誌 『民衆』 について知ることができる。

 文学館で雑誌 『民衆』 創刊号の表紙を見たが、碑の 「民衆」 の文字は雑誌の表題を拡大したもので、「われらは…」 は題字の下に縦書きで書かれた創刊の辞の冒頭部分であることが分かった。因みに、その続きは、「世界の民である。日本の民である。われ自らである。われらは自由に創造し、自由に評論し、真に戦ふものだ。われらは名のない少年である。しかも大きな世界のために立った。いまや鐘は鳴る。われらは鐘楼に立って朝の鐘をつくものだ」 である。

 この雑誌が創刊された1918 大正 7年は大正デモクラシーの社会思潮を背景に、 第一次世界大戦が終結し、ロシア革命が成功するといった世界的な時代の転換期であった。小田原在住の若い文学者たちの気持の昂揚が窺われるが、彼等による北村透谷顕彰の動きは、単に郷土の詩人の先輩というだけでなく、透谷の思想や生涯に共鳴するところがあったからであろう。 福田正夫(1893~1952)と仲間たちについては文学館の展示に詳しいが、この民衆碑がある城山には仲間の井上康文や牧野信一の文学碑もあるので、ここに民衆碑が移されたのはこの辺の事情があるからだろうか。しかし透谷とは離されてしまったことになる。

 

 

 

 透谷の墓  

 北村透谷は1894 明治27年5月、東京の芝にあった自宅で自ら命を絶った。島崎藤村らと雑誌 『文学界』 を興して注目された翌年のことである。遺体は白金台にある瑞聖寺(黄檗宗)に葬られたが、60年後の1954 昭和29年 5月に小田原にある高長寺(曹洞宗)の北村家墓地に改葬された。記念碑の移転と同じ年である。

 改築されてすっかり今風の駅になった小田原駅の西口を出て小田急線に沿った道を行くと10分位のところに高長寺はある。明るい墓地の中ほどに透谷の墓はあるが、初めてお参りした時は梅の季節でメジロがたくさん集まっていた記憶があるのだが、今見ると梅はもちろん墓地に蔭を作るような木が見当らないのが不思議だった。あれは私の記憶違いだったのだろうか。

 やや細めの墓石には 「透谷北村門太郎墓」 と刻まれ、裏面に 「明治二十七年五月十六日死」、右側面に 「透谷妻 美那子/昭和十七年四月十日昇天/七十八才」 とある。 おそらく瑞聖寺から移した墓石だろう。右には父快蔵夫妻、左には祖父玄快夫妻と北村家 3代の墓石が明るい初夏の日差しを浴びていた。

 ところでここに改葬される前の瑞聖寺にあった墓については、今では文学散歩の古典ともいうべき野田宇太郎の 『新東京文学散歩 続篇』(角川文庫 1953年 5月)に次 のように描かれている。

 

「本堂の庫裏の間を抜けるとその奥は可成り広い墓地である。伊藤博文の墓はここにはないが、その父母の墓もある。さうした所謂昔の名門の墓の間を抜けて樹木の多い奥の方へ進むと、やがてもう墓が尽きて裏の通りが見えようとするあたりに透谷の墓が、人目に立たぬ狭い地域に立ってゐる。一坪にも足りない土地に、四方の墓にかくれるやうな、高さは下の台石共に約一米二十糎、幅十八糎の小さ い細長い墓石である。表面にはただ
 透谷北村門太郎墓
の文字が狭い碑面殆どいっぱいによまれた。それを周囲の潅木が覆ひかくすように枝葉をのばしてゐる。裏を見ると 「明治二十七年五月十六日死」 と云ふ文字だけが判然りと刻まれてゐる。自殺の日である。(中略) 北村透谷の血縁はまだ続いてゐる筈である。然し夫人はもう居ない。この墓の荒れたやうなさみしさはそれを物語ってゐるのだらうが、それにしても、ここに透谷の墓があることを知ってゐる文人とてさう大してあるわけではない。何かしらのわびしさが、いきどほりの気持に混って、心の中でぶつぶつと沸りはじめるやうな気持を、私はぢっと耐へてここを去るより他はなかった。」

 

 現在は野田宇太郎がこの文章を書いた頃に比べると、北村透谷についての関心も研究もはるかに広く深くなっている。小田原における透谷記念碑に関係した人々の動きはこうした今日における透谷評価の礎(いしずえ)を据えた意味で忘れることは出来ないであろう。 特に島崎藤村の果した役割が測り知れないものであることは、先の記念碑建立の経緯をみても明らかだろう。透谷の死後、彼は亡き友を顕彰することに心を砕いた。作品では 『破戒』 に次ぐ長編第二作 『春』 で 「文学界」 に集まった若者たちの青春を詳細に描いた。『春』(岩波文庫、1970年)から透谷の亡くなるあたりを少し紹介しておこう。

 

「そこは、土地も高燥、樹木も鬱蒼としていて、わが性に適うと青木(透谷)が言った場処である。二人の友だちは、やがて操(美那子)に導かれて、屋の内へはいった。閑静な、こぢんまりとした住居で、台所の方へ寄った一部屋は別にあとから建て増しでもしたものらしい。そこだけ一段低くなっている。そこには人が出たり入ったりしている。操は夫の友だちの顔を眺めながら、あれほど骨を折って看護したかいもなかったという残念な面持で、前の夜のことを話した。白昼のように明るかった月の光の静かさは、青木の魂を誘ったらしい。彼は生の荒廃に堪えられなかったらしい。庭の青葉のかげで、彼は縊れて死んだ。(85)

墓地はこの寺の境内で、幽邃な、樹木の多いところにあった。混雑に紛れて、いつのまにか岸本(藤村)は友だちに逸れてしまった。(中略) 山のように盛り上げられた赤土の上には、次第に人が立った。手を引き合ってやって来た娘の群れは、その辺へ集まろうとして、岸本のわきを急いだ。(中略)「それ入れろ、縄が切れやしないか。」 こういう声が起こった。穴の中ヘ棺のすべり落ちる音がした。やがて人足の土をかき落とす音がはげしく岸本の胸を打った。彼は青木の埋められるところを見るに堪えないような気がしたのである。(88)」

 


 

 北村透谷の墓に参った私は、ふと小田切秀雄さんもこの寺の墓地に葬られているという話を思い出してそれほど広くもない墓地を探してみたが分からなかった。そこでお寺に尋ねたところ住職が気さくに案内して下さった。
 
 小田切さんの墓は周りの墓石に埋れるように置かれた小さな自然石だった。断面が三角形の石の一面を小さな四角に磨いてそこに、「小田切秀雄/みゆき/小田切の人たち」 と彫ってあるだけだった。あとは何も記されていない。生前に親しくしていた人とのご縁でここに墓地を求めたとのことだ。

 小田切さんは、『透谷全集』 (岩波書店)を編んだ勝本清一郎さんとともに戦後の透谷研究の先達を務めた方である。近現代文学を幅広く研究して多くの業績を残されたが、北村透谷にたいする小田切さんの深い思いと人柄を改めて知った思いがした。