今は世界も日本も変化が速いので10年、20年前のことはもう昔のことになるような感じだが、これはそんな昔の話の一つ。

 

 かつてイギリスに滞在して活動していた国文学者林望の著書 『イギリスはおいしい』(平凡社)は大変評判になった本で、イギリスの食文化についてのわれわれの無知、偏見をユーモアと蘊蓄のある文章で正してくれたものだ。

 私が始めてロンドンに行ったときにはホテルのレストランで大きな塊のローストビーフをその場でコックが切ってくれたのに感激したが、やはり当時は 「イギリスは見るところはいろいろとあるが食事がどうも」 というのが定評だった。 ところで同書にはイギリスの庶民にとって最も親しい食べ物として、日本人にとってのラーメンとかカレーライスにあたるものが 「フィッシュ・アンド・チップス」 だと紹介されている。タラやカレイのような白身魚のフライとポテトチップのことだが、普通はこれを紙を折った袋に入れて酢と塩をかけて食べるそうだ。だから本来はテーブルに向かってかしこまって食べるようなものではないのだが、レストランでナイフとフォークを使って上品に食べることもあると書いてあった。 

 

 ロンドンを再訪した折少し時間ができたので友人とウィンザー城の見学に出かけた。ホテルから地下鉄でパディントン駅に行き、そこからは電車に乗ってスロー駅で乗換えウィンザー・セントラル駅に降りた。全部で約50分、ウィンザー駅はずいぶん立派な駅だった。電車は前面が黄、側面が赤で縁どられたなかなかおしゃれな感じだったが、ボックス席ごとに出入口があるのが珍しかった。また地下鉄の落書きがひどいのにはビックリした(電車ではなくディーゼル車だったかもしれない)

 さて、お城を見学する前に昼食をと入った駅前食堂で食べたのが例の 「フィッシュ・ アンド・チップス」 だった(写真)。丸いお皿には大きなカレイのフライに野菜が添えられ、別の大きな皿にはポテトチップスが山ほど乗っている。とても食べきれない量だがテーブルの酢と塩を好きなだけかけて食べる。そのときに例の林の本のことを思い出して酢と塩をたっぷりかけて食べたがけっこうおいしかった。庶民の好物は日本とあまり変わらないなと感じたことをよく覚えている。

 

 林は 「揚げたイモに酢をかけて食べるというのは、これは一種の伝統であって」 「レストランなどでも、およそこのチップスのあるところ必ずモルト・ヴィネガーあり、と断定してよい。…私は、この酢と揚げイモというアンサンブルを殊のほか愛する。」 と書いているが、残念ながら私はこの料理を何回も食べることはなかった。しかしあちこちのパブに入って土地の人にまじって気持よく飲んだり食べたりした経験はよかった。食べるのも飲むのも庶民の世界では国が違っても似たようなものだとつくづく思った。

 


 

 

 

 ところで沖縄の話に変わるが、那覇の公設市場はやはり私にとっては驚きだった。那覇一番の繁華街国際通りからせまい市場本通り、平和通りに入ると小さな店が並んで生活のにおいが満ち満ちているが、なかでも第一公設市場は活気に溢れてとても楽しいところだ。市場には150を超す店があるそうなので沖縄の食材は何でも揃う。沖縄の人は豚を鳴声以外すべて食べるというが、肉はもちろん耳・足・内臓・尻尾が積み上げられ、お面のような豚の顔がいくつもぶら下げられているのには驚いた。魚を売っている店もたくさんあるが、東京では見たこともない青や赤といった色鮮やかな魚や海老・貝・海藻が並んでいる。ゴーヤーをはじめトウガン・ナーベラー(へちま)など沖縄らしい野菜、 さらにマンゴー・島バナナなどの果物、その他乾物や惣菜・加工品などなど実にさまざまな食べ物が広い市場の中はもちろん周りの道路にまで溢れている様子は、まさに沖縄の素顔、元気の素を見るようだった。

 

 この市場のすばらしいのはこうした沖縄の食材が豊富にあるばかりではなく好きなものをすぐ食べられるところにある。市場の中央の階段で2階に上がるとそこは食堂になっている。壁際に何軒もの沖縄料理の店が並び中央にテーブルと椅子が並べられている。屋台村のように好きな店で料理を作ってもらって食べるわけだが、楽しいのは下の市場で買った魚をすぐ調理してもらえることだ。われわれもマグロ・ソデイカ・ アオブダイ・キビナゴ・アカマチ・シャコガイ・ウミブドウで刺身の盛合わせを作ってもらい(写真)、ゴーヤーチャンプルーなども注文して泡盛で大いに盛上った。

 夜は “うりずん” という店に行った。よく知られた店なのでだいぶ込んでいたが何とか座ることができて目の前に並んだ泡盛から古酒(クース)を選んで沖縄らしい料理をつまんだ。まずスクガラス豆腐、少々硬い島豆腐の上にアイゴの稚魚の塩漬けをきれいに並べたもので酒のつまみによいが塩分が気になる私には少々きつい。豆腐よう、豆腐をサイコロ形に切り米麹と紅麹で漬け込んだ珍味。チーズのようなこくがあり泡盛によくあう。ラフテー、豚の三枚肉を泡盛と黒砂糖を加えてとことん煮込んだものですごくおいしい。驚くほど柔らかいのがすばらしい。この外にもスーチキ・セーファン・ドゥル天・ナーベラーンブシー・チキアギ・グルクン唐揚・ボロボロジューシーなど、説明されないとどんなものか分からない料理がたくさんある。沖縄には泡盛の醸造元が46もあるというが、この店には泡盛と沖縄の料理が実にたくさん準備されているので人気があるのもうなずける。泡盛は焼酎の仲間、気分よく飲みかつ食べているうちに沖縄の夜が更けていった。

 ところで小説 『風の盆恋歌』 の作者髙橋治の小説 『漁火(いじゃいび)』 を後に読んだ時に 「入口を入ったところにある土間には、古木を縦割りにしただけのテーブルが四つ、L字型に造られたカウンターには、やっと客が滑りこめるほどの間隔で高い椅子が並べられ、どこも客で一杯だった。」 「主人の後ろには古酒を入れた甕がずらりと並んでいる。」 と “うりずん” が小説の一場面として登場したのには驚いた。

 お金をたくさん出せばおいしいものを食べられるのは当たり前。だから安くておいしいその土地の味、うまい酒にめぐり合えたときの喜びは旅の楽しみの大きな部分を占めているのではないだろうか。

 

 コロナウィルスの感染によってこうした楽しみが失われてしまったが、ふたたび酒を楽しむことができる日が来ることを切に願っている。