古書店で土岐哀果(善麿)の詩歌集 『不平なく』 を見つけました。

春陽堂より1913 大正2年7月発行

今の文庫本と縦は同じ、横が少し狭い小形本です。

1912年6月から13年4月までの詩歌が収められ

「僕の生活の一部である。哀果生」 と扉の裏にあります。

写真は左が表紙で右が扉です。

 

土岐哀果(1885~1980)は石川啄木(1886~1912)の晩年の友人です。

明治19年に生まれ、明治の最後の年にわずか24歳の若さで死んだ啄木と同年配でした。

死の前年に読売新聞の記者だった土岐と会って 『樹木と果実』 の発行を計画した仲でした。

雑誌は印刷所とのトラブルで発行されませんでしたが

明治末年の閉塞感濃い社会の現実を見つめて明日の社会を目指そうとするものでした。

 

 

 

 

 

 

ここに紹介したいくつかの歌は

いずれも前年4月に病気と貧窮のうち死んだ啄木を詠んだものです。

いずれも3行書きですが、啄木の歌集 『一握の砂』 も3行書きで知られています。

実は哀果のローマ字歌集 『NAKIWARAI』 の3行書きの方が早かったのです。

 

哀果の実家は浅草の等光寺というお寺でした。

啄木の母も啄木自身も哀果の計らいで葬儀をし、葬られたのでした。

(後に遺骨は函館に移されました)

 

 

 まづはけふも、もの言はぬ日の

  暮れたりと、    

 たそがれの椅子にもたれて、煙草をすへり。

 

詩歌集 『不平なく』 冒頭の一首です。数ページ後にはこんな歌もあります。

 

 おとなしくなりぬるものかな、--

  言はんとして言はざりしことの

  けふも二どありき。

 

この詩歌集の歌が詠まれた時期、1912年7月には明治天皇が亡くなり

年号が明治から大正に変りました。

この年の暮、陸軍の横暴で西園寺内閣が倒れて憲政擁護運動がおこり

翌年2月には議会の周辺を民衆が取り巻き桂内閣が総辞職しました。

 

 かの夜の群集の叫びの、ふとしては、

 耳に湧くなり。

  さびしくてならず。

 

 やれ、やれ、と、叫ばんとして、

 群衆の

  かなしき顔を、眺めたりけり。

 

といった歌はありますが、亡くなった明治天皇に関する歌はみあたりません。

新聞記者として政治や社会の第一線に触れていた哀果が、

こうした時代の大きな変化に敏感でないはずはありません。

 

『不平なく』 を刊行した直後の1913 大正2年9月には 『生活と芸術』 を創刊しています。

かつて啄木と計画した 『樹木と果実』 への思いをを実現したと言えます。

 

啄木の生前には間に合いませんでしたが啄木の第二歌集 『悲しき玩具』 の出版に尽力し

遺族の面倒をみ、啄木を世に出すことに力を尽したのが土岐哀果でした。

 

詩歌集 『不平なく』 は実は 『不平大いにあり』 の反語的表現ではないかと思うのです。

 

後に朝日新聞社に移り定年まで新聞人として第一線で活躍しつつ、

短歌や詩などの世界でも戦後まで活動を続けた土岐哀果を知るにつけ

石川啄木がもし同じような寿命に恵まれたならばどのような活動をしたろうかと

啄木に深い関心を持つ私はつい考えてしまうのです。