信州上田市の西郊に位置する別所温泉の北を東西に走る古道東山道に沿って青木村がある。「夕立と騒動は青木から」 といわれたように、この村は江戸時代には1761 宝暦 8年の惣百姓一揆をはじめ百姓一揆の頻発したところとして知られている。

 

 この村の古寺大法寺に建つ三重塔(国宝)は、鎌倉時代末期の初層が大きく安定感のある美しい塔として知られ、「見返りの塔」 といわれている(写真)。この塔のすぐ傍の郷土美術館の前にあるのが写真の句碑である。

 

   シャツ 雑草に ぶっかけておく 一石路

 

 何千年も前からここにあるかと思われる大きな岩に句と銘文を彫った句碑は珍しいだろう。ものすごい存在感がある。

 

 作者栗林一石路(1894~1961) はここ青木村に生まれ、大正デモクラシーの時代に熱心に青年会の活動をする傍ら荻原井泉水の自由律俳句運動に参加したが、昭和初期にはプロレタリア俳句運動を興した。一方、上京して改造社・同盟通信社でジャーナリストとしても活躍した。

 

 句碑の句は、1926 大正15年に 『層雲』 に発表したもので、後に第一句集 『シャツと雑草』(1929)の表題となった。『私は何をしたか-栗林一石路の真実』(信濃毎日新聞社、2010に 「一石路の代表句であるこの句は、大正15年夏、労働者が汗にまみれて働く情景を詠んでおり、やがてプロレタリア俳句運動の旗手として歩む一石路の出発点として位置づけられている」 とある。

 

 この句は、1923年に上京して関東大震災を体験した一石路が、多摩川で働く労働者の姿を見てつくられたという。当時は東京や横浜の大震災後の復興のために多摩川の砂利が大量に採掘されていた。眼前の事実をありのままにに表現したこの句は、河原で働く多くの労働者の姿への共感に裏付けられているのではないだろうか。

 

 小学校の教員をしながら一石路を支えてきた妻たけじは、戦後の1947 昭和22年に脳溢血で急逝した。その時の一石路の句。 

   妻よ抱かれて ふるさとの山へ 帰ろうよ

 

 その14年後の1961 昭和36年に一石路は67歳で他界した。彼の最後の句。

   わが庭に 声ごえ高し 冬木の子ら

 

 写真の句碑は、一石路の没後30年を記念して村人とゆかりの俳人によって1991 平成 3年5月に建てられ、近くには青木村歴史文化資料館が建設された。木の香が漂ってくるような木材をふんだんに使った大きな建物で、一石路の生家を模したのだろうか、瓦屋根の棟には長い小屋根が乗っており図書館を併設している。

 

 資料館には、栗林一石路資料展示室・青木村義民資料展示室・古代遺跡発掘土器展示室があるが、義民資料展示室には百姓一揆の研究者として知られた林基の著書・資料が寄贈されている。この二つの展示室を見学すると、“反骨の俳人・ジャーナリスト” と言われた栗林一石路の郷里青木村に流れる抵抗の精神、不屈の精神が脈打って彼に及んでいることを感じるのである。村にはあと二つの彼の句碑が建っている。 (歴史文化資料館は工事のために休館していたが6月に再開予定)