ウ ィ ー ン の 思 い 出

 

 

自画像と、農村風景と 

 レンブラント(1606~1669)は生涯に多くの自画像を残しているが、上の自画像(複製)1639年の制作、彼の絶頂期の姿を伝えるもので(版画)、自信に満ちた引き締まった表情が印象的だ。

 

彼の自画像には、首当てをつけて顔をあげ遠くを見るような自信と気負いの表情を見せる若い姿、画家としての地位を確立して家庭の幸せと富を得た時期の鉄兜と首当てをつけて落着いた表情の中年の顔、妻を亡くした上破産して貧窮生活に沈んだ時期の不気味な表情を見せるベレー帽をかぶった姿、そして死の5年ぐらい前の大黒ベレーをかぶり深い皺が刻まれた顔が不思議な笑みをこぼす老いたレンブラントなど波乱に満ちたその生涯を反映するかのような姿が見るものを引き付けてやまない。あの特色のある鼻と目の自画像はそのどれもが前に立つ者に何事かを語りかけてくるように感じられる。

 

映画 「第三の男」 を映画館で見た年代のものにとっては、ソ連をはじめ連合国に占領されていた荒廃したウィーンの町とあの巨大な観覧車のイメージが強烈だが、今のウィーンには荒廃した面影はなく、赤い電車(写真)や自動車が行き交う昔ながらの町並みのように感じられた。   

 

 

 私がウィーンで泊ったホテルは美術史美術館に程近い静かな通りに面していた。広場の中央に聳え立つマリア・テレジア像を挟んで自然史博物館と相対して建つ美術館を訪ねたのが平日の午前中だったためだろうか人影まばらでとにかく静かだった。天井までありそうな大きな木の扉を押し明けないと室内に入れないところもあり、監視人は数室に一人で、巡回する靴音が静かな館内に響いた。有名な絵画コレクションは2階の全室 - 39室に国別・画家別に展示してあり、フラッシュを使わないかぎり写真は自由で、監視カメラが作動していた。たまたま同じ部屋に居た青年がフラッシュを使ったところ天井から鋭い声で注意されたのにはビックリしたが、部屋によっては私一人が名画の数々を独占して静かに ゆっくりと鑑賞できたのには大変感動した。

 

 

 レンブラントの作品は第ⅩⅤ室にあった。眉間に深い皺を刻みこみ使いふるした仕事着姿のレンブラントがこちらを見つめていた(写真)。破産したころの時期にあたる作品だが、人生の危機に直面していた頃の彼の沈鬱な様子がうかがわれるように感じた。ただ同じ頃に描いた息子ティトゥスの本を読む姿は左上からの光線が効果的で、机の前の14歳頃の彼を描いた作品から数歳成長した姿が描かれていた。

 

 このときの旅ではロンドンのナショナルギャラリーで盛装して自信に満ちた一番華やかな頃の自画像を、そしてパリのルーブル美術館では20代の3枚の自画像と晩年の老いを感じさせる白い帽子を被り絵筆とパレットを持った自画像を見てきた。

 

 レンブラントは生涯に約60点の自画像を残しているそうだが、なぜそんなに多くの自画像を描いたのだろうか。そのいくつかについて真贋の論争があるにしても、いくつかの美術館や展覧会でその一部を見てきて湧いた素朴な疑問だった。表情はその人の内面と深くかかわっている。人物画を得意としたレンブラントが、年齢とともに変化する顔のつくりと心のうちを示す表情を、自分の顔をモデルに飽くことなく描いたのがなんとなく分からないでもない。

 

 それにしてもこのような彼の自画像がどうして王侯貴族のコレクションに含まれているのだろうか。当時の画家たちは、王侯貴族の求める王・王妃・王女らの肖像や生活および聖書や神話の世界、または新興の商人たちの姿を描く才能を愛されて歴史に名を残したのであろう。王侯貴族が画家の姿-自画像に特別に興味を持ったとは考えられない。だから有名な画家でも自画像がいくつもある人は同時代にはいないのではないか、レンブラントを除いては、と思うのだがどうだろう。 答はとっくに出ているのだろうか。同じような意味で、もっぱら民衆の姿やその世界を描くことに徹したブリューゲルの作品がこのハプスブルク家のコレクションに含まれていることが私には不思議でならない。

 

 それはともかくとして、第室を独占したブリューゲル(1525頃~1569)の作品の数々はファンにはたまらないだろう。有名な 「子供の遊び」 にはなんと246人もの子供が飛び跳ね、走り回っている。お手玉・馬跳び・輪回し・竹馬・木登りなどなど日本の子供と同じ遊びを楽しむ子供たちが克明に描かれている。村の広場での謝肉祭の日の騒ぎを思わせる大人たちの様子を描いたのもある。さらに花婿がどこに居るのか分からないが飲み食いで大いに盛り上がっている 「農民の婚礼」、これと対になるような 「農民の踊り」。ブリューゲル のお墓はベルギーのブリュッセルにあるそうだが、冬のベルギーの農村風景だろろうか、傑作といわれる 「雪中の狩人」 もある。これらの作品はいずれも1560年代の制作であるが、考えてみるとその頃の日本はあの織田信長が登場した時代だ。日本でも武士から農民までみな生き生きとしていた時代だったなと思った。ついでに言えばレンブラントの時代は江戸幕府ができてから4代将軍徳川家綱までの頃にあたる。

 

 

 

 「ウィーンの人たちにとってはなによりもワルツであり、ヨハン・シュトラウスなんだよ。日本人とは違うんだよ。」 といった印象を強く受けたのは、市立公園の真ん中に立つあの金色に輝くシュトラウスの像を見たときだった。美術史美術館から市立公園のほうに歩いてくると、ゲーテとシラーの像は別格として、モーツァルト・ブラームス・ベートーベン・シューベルトなど錚々(そうそう)たる音楽家の像を次々と眺めることが出来、あらためて 「なるほどここは音楽の都なのだ」 と思うが、それだけに公園の中央に立つシュトラウス像(写真)の存在感の大きさにあらためて感心してしまう。

 

 この時は安いチケットが手に入ったので有名なオペラ劇場でマスネの “マノン” を聴く、観る体験をしたのだが、文字通りの天井桟敷で座ったら何も見えず、立っても舞台の一部しか見えないというほろ苦い体験をし、自分の席への出入りや休憩時間の過ごし方などに日本との違いを感じたのだった。

 

特急モーツァルト号に乗る

 せっかくの機会だからと少々遠いがモーツァルトの故郷ザルツブルクに鉄道で行くことにした。ウィーン西駅発の特急で約3時間の距離である。朝9時発の列車に乗るために駅に行って驚いた。なんとモーツァルト号といい、エンジとブルーの瀟洒(しょうしゃ)な車両で座席は個室になっており、落書きもなくその上すいていたので大変いい気分でザルツブルクに向かうことになった。

 

 

 地図を見るとオーストリアの首都ウィーンは東のスロバキアとの国境近くに偏っているが、ザルツブルクはそこから西へ約300kmでドイツに接したところに位置する。鉄道は、西のほうから延びてきたアルプス山脈が東に果てようとするあたりの北側を東から西に走っている。特急はパリ行きの国際列車で、しばらくはほぼドナウ川に沿って走るが、リンツからは南西に方向を変えて山寄りを走ることになる。リンツはドナウ川に面した古い町だがモーツァルトの交響曲36 “リンツ(k.425) が初演され、作曲家ブルックナーが教会のオルガニストとして活躍してその生涯を終えた地としても知られている。ぜひ降りてみたいところだがそういうわけにもいかないので駅の光景を見るだけで我慢する。

 

 列車が山地にかかると曇り空から雪が落ちてきた。さらに進むとあたりは雪景色となり黒い森と赤や青の屋根の家がまるで絵本の絵のようで深く心に残る風景だった。やがて列車は坂道を下るように30分ほども走って雨の降るザルツブルクに11時58分に着いた。

 

 広告の入っているモーツァルト号の時刻表によると列車は11分ザルツブルクに停車した後ミュンヘンに向かい、アウグスブルク・シュトゥットガルト・ストラスブールを経由して終着駅パリに到着するのは22時20分の予定だ。ウィーンから13時間余、直線距離で約1000kmの旅である。チャンスがあればパリまで乗ってみたい気もするが、やや遠すぎるとも思う。成田からパリまでの時間よりも長いのだから。

 

  

 

 山の上のホーエンザルツブルク城塞の下に広がるザルツブルクの旧市街へは、駅から新市街を通ってザルツァッハ川を渡るが、橋からの眺めがなかなかよい。悪天候にもかかわらず町の中には観光客が多く、特に古い商店も新しい商店も手の込んだ鉄製の看板を掲げているゲトライデガッセの通りは混みあっている。その中ほどにモーツァルトの生家がある。黄色い壁の建物に細長い赤白赤の国旗が垂れ下がっているのでよく目立つ。モーツァルトはここの4階で生まれたそうで、彼の使用した楽器や楽譜が展示されていた。近くにある広場には大きなモーツァルト像があるがなぜか覆いがかぶせてある。聞いてみると冬だからだそうだが、冬囲いをする像というのは聞いたことがない。それだけ大切にされているということだろうか。

 

 ザルツブルクは、夏の音楽祭の時には大変な賑わいだそうだが、今は会場となる祝祭劇場のあたりは静まりかえっている。ここはまた指揮者カラヤンの生まれた土地で、世界をまたにかけて活躍した大指揮者も今は近くにある墓地に眠っている。それに映画 「サウン ド・オブ・ミュージック」 の舞台となった所でもある。やはりもっと時間の余裕を持って来なくてはといった思いで帰途についたが、モーツァルトのフォルテピアノをシフ (Andras Schiff 1953~) が弾いた1枚のCDがこの日のザルツブルク行きの記念となった(1991年録音、写真)。

 

 

 

 昨年11月に巨匠となった66歳のシフが自分のオーケストラと一緒に来日してベートーベンのピアノ協奏曲全曲の演奏会をした。私はかつてのザルツブルク行きを思い出しながらこの演奏会をテレビ放送で聞いたのだった。