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 もう何年も前のことになるが京都の金閣を久しぶりに見学したときにもらったしおりに 「二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた柿(こけら)葺で、上には中国でめでたい鳥といわれる鳳凰が輝いています。一層は寝殿造で法水院、二層は武家造で潮音洞とよばれています。三層は、中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くっきょうちょう)とよばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。昭和六十二年(一九八七年)秋、漆の塗替や金箔の張替、更に天井画と義光像の復元を行いました。」 と書いてあったのに驚いたことを覚えている。
 

 室町時代に建てられた金閣は1950 昭和2572日に寺内の青年僧の放火によって全焼し、195510月に再建されたのが現在の建物だということはあまりにも有名な事件だったのでたいていの人がある時期までは知っていた。しかしこの事件の頃生まれた人もすでに70歳になろうとする今では知らない人のほうが多いのかもしれない。しかし日本人をはじめ多くの外国人に伝えるべきなのは 「目の前にある建物は焼失後に再建された」 という正確な事実であろう。

 

 もし、戦後再建された奈良薬師寺の西塔や法輪寺の三重塔についてその建築様式を説明し、それぞれにその時代を代表する建物ですと説明したら人はなんと言うだろうか。金閣はもともと時代の経過による変化-古色があまり目立たない建物だから焼失・再建には触れなくてもよいというわけでもないだろう。金閣は、京都で特に有名な寺の一つで観光客が多いこと、それも学生や外国人が多いことを考えるとこうした寺の姿勢は問題といえる。

 

 法隆寺をはじめ古社寺の修復には特別な技術と修練を必要とするが、西岡常一をはじめとする少数の技術者-宮大工の努力がそれを支えてきたことはよく知られている。またそうした技術の伝承と習熟があったからこそ法輪寺三重塔をはじめ薬師寺西塔や金堂・講堂の再建が可能になったことも忘れられない。古い文化財が今日に伝えられたのもこのような技術者の地道な努力の積み重ねの賜物ともいえる。金閣にみられる “あったことをなかったことにする” 姿勢は、金閣の再建に尽した技術者の努力、あまり例のない高度な技術を顕彰し後世に伝えるといった機会を無にする行為であり、きわめて残念なことである。

 

 さらに重要なことは、焼失そのものをなかったことにする、あるいは過去のこととする姿勢である。放火した学生僧林養賢の真意が何処にあったかは他者に容易にはつかみ得ないにしても、“狂気の不幸な結果” で済ましてしまうことは出来ないだろう。元のように再建すればそれでよいというものでもないであろう。彼が死を覚悟して行なった行為、放火によって金閣をはじめ足利義満像などの国宝が失われたという事実を金閣の住職をはじめ本山や寺院の関係者が本当に真剣に受け止めたのかといった疑問である。観光寺院としてのますますの繁昌ぶりや、さきの見学のしおりの説明を見ると首をかしげたくなるのは当然であろう。

 

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 この放火事件は二つの文学作品を生み出した。一つは三島由紀夫の『金閣寺』 で、もう 一つは水上勉の 『金閣炎上』 である。前者は1956 昭和31年に発表されたが、物語は終始放火僧の一人称で語られて最後に金閣への放火に収斂する。まさに作者三島の美学がこの放火事件を通して語られた感がある。中でも私の記憶に残るのは次の一節である。

 

 「おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間性とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永世の幻がうかび、金閣の不壊(ふえ)の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することが出来ないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。」(第8章)

 

 人間の生命のはかなさ、一回性に対して美の永続性、不滅といった常識に対して、それを逆転したところにこそ人間の真実、美の真実があるとする。作者の美意識を体現する主人公の友人柏木が月の美しい夜に金閣で吹く尺八を聞いて、「彼が金閣へやって来たのも、月の照る間の金閣だけを索(もと)めて来たのに相違なかった。それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ!吹奏者が成就するその短かい美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣(かげろう)のような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。」 「美の無益さ、美がわが体内をとおりすぎて跡形 もないこと、それが絶対に何ものをも変えぬこと」 「柏木の愛したのはそれだったのだ」と 私(主人公)は感得する。柏木も吃音(きつおん)症の私と同じく内翻足という障害をもっていた。しかし彼は卑屈、偏屈になることなく俗世間に挑戦的に強く、逞しく生きていた。

 

 個々の人間の生命は尽きても属性としての人間の醜さ-僧侶をも例外としない金銭欲や色欲、虚偽、欺瞞、そして障害者のような弱者に対する偏見や差別は終ることがない。人びとが金閣に見る永遠の美は錯覚であり、真実ではないと確信した私はついに金閣に火をつける。夥しい煙と火の粉を山の上から眺めながら、「一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」 ところで小説は終る。

 

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 事件の真実は何処にあるのだろうか。事件の6年前に放火した林養賢と偶然に会っていたという水上勉が、「彼がなぜ金閣に放火したか、そのことを、つきつめて考えてみたかった。だが、本当のことはいまもわからない。」としながらも周到に関係資料を精査し、関係者や関係した土地を尋ねてその答に近付こうとしたのが1979 昭和54年に刊行された 『金閣炎上』 である。事件から29年の歳月が経過していた。


 作中、事件後の裁判で養賢の精神鑑定の際の供述に触れて、「彼の供述には、収入の多い金閣を支配しながらも、禅僧としてのたてまえを云い、夜ごと陰寮へ酒をつぎにこさせて、ついでにその場で説教する和尚への反感があふれている。師匠の生き方に絶望した小僧はどこへゆくのだろう。金閣さえ焼いてしまえば、という発想をもつにいたる経過を彼は率直に告白しているのである。」「むしろ、生きていても、つまらないという考えをもった。その因は、和尚の酒つぎをしていて、和尚がしゃべったことばから、影響をうけたという。 自殺願望の芽は和尚の直伝であったというのだ。」といい、次のように書いている。

 

「三浦氏の問いにこたえ、養賢は、金閣入山以来の気持の変りようを正直に告白したのである。そうして、放火動機について、自分流に納得のゆく理由を語った。死にたくなっていた人間が、死所を金閣にえらび、建物とともにこの世から消えようとしたのである。私が先に、養賢に金閣放火を決意させたものは、金閣寺内の事情をおいて考えられない、と、再々いってきたのはこの消息である。ここではじめてそのことが養賢によって明かされていることを私は確認する。」 (37)

 

また、別の箇所ではこうも書いている。

 

「林養賢は、金閣を焼くことで、師の慈海を正し、自分をも殺そうとして、死にきれなかった。女子暴行の比ではなくいのちがけの悪事をやってのけたといえる。もし、彼が、金閣とともに、計画どおり焼死していたら、事件は様相をかえて、日本仏教史に彫りきざまれる意味をのこしたかもしれぬ、とはこのサンフランシスコでの思いだった。」 (38)

 

 そして、1948 昭和23年に金閣寺の庭園の修理をした久恒秀治の言葉を紹介している。

 

「ここで彼の行動の是非をのべるつもりはない。それよりも、文化財を抱えた京都の寺院が『金閣炎上』 をただの犯罪として見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい。観光、観光と、ただそれのみに明け暮れする京都の寺院は、声の無い少年の抗議に深く心耳を傾け、慙愧し、宗教機関としての本来の面目を取戻し、道場としての姿勢に立戻ることを願うのみである。金閣が再建されても、北山殿の舎利殿は再び甦らない。」 (37)

 

 まさに三島の言うようにモータル(mortal) なはずの人間は実はインモータル (immortal) なのだろうか。 「あとがき」 に「本当のことはいまもわからない」 としながらも 「私なりの考えがまとまっていった」 と書いた水上の言わんとしていることは明らかだろう。寺の小僧だった自らの体験と重ねながら丹念に養賢の行動と心情をたどる水上の姿勢は、養賢の貧しさ、肺病、身体障害、両親の不運な境遇を通して若狭の多くの人々の貧しさと心情を照らし出すとともに、そうした人たちに対する暖かいまなざしを感じさせる。

 

 水上勉はこの 『金閣炎上』 に先立って1963 昭和38年に 『五番町夕霧楼』 を発表している。五番町にやってきた幼なじみの夕子にだけは心を開く檪田(くぬぎだ)、やがて彼が金閣に放火し自殺すると、肺病で入院していた夕子が行方不明となり数日後に故郷で死骸が見つかるという物語を通して遊廓に身を落した娼妓たちの人間としての哀歓を描き出した。

 

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 北野天神前の豆腐屋直営のとようけ茶屋で生ゆば丼を食べた後、天神さんの東にあたる上七軒を歩いてみた。京都最古の花街だけあって立派な歌舞練場と何軒ものお茶屋が建っているが、西陣の旦那衆で賑わった往時の面影は感じられなかった。ここから南にあたる五番町にも足をのばした。昔電車が走っていた北野の商店街の少し先だった。近くの商店の年配の男性に場所を尋ねると、少し面映ゆげに「すぐそこの通りの辺りだけど昔の面影は無いよ」 と教えてくれた。南北に走る千本通のすぐ西側、中立売通と仁和寺街道の辺りである。ここはどちらかというと庶民が遊ぶ街だったようだが、あの林養賢も事件の直前に3回登楼している。しかし妓楼が建ち並んで賑わったであろう街のようすは全くといってよいほど残っていなかった。ここでもあったことがなかったことになっていた。そして多くの娼妓たちの悲しみや喜びも忘却の彼方に消え去ってしまったようだ。

 

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 五番町と同じように賑わったという橋本の旧遊廓を訪ねたことがある。京都の南、有名な石清水八幡宮の近くだが、大きな歌舞練場は蔦に覆われて今にも崩壊するかの趣だった。しかし建ち並ぶ旧妓楼は手摺のついた二階や一階の格子・欄間のたたずまいに旧観を残す家が多かった(写真)。なかでも今は旅館をしている家が昔の内部のようすをよく残していた。色ガラスのある入口を入ると広いたたきとなり、正面には廊下、右手には大きなアーチ形の部屋の出入口がある。格子を隔てて通りに面する部屋にたむろする娼妓たちとここで話をつけたのだろうか。廊下にあがると左手にはダンスをしている男女を描いた大きな色ガラスの壁があり、右手には二階に上がる手摺の無い幅の広い大きな階段が黒光りしていた。

 

 五番町の入口にあたる千本中立売の居酒屋神馬に腰を下ろした私は、橋本で見た旅館のようすに五番町夕霧楼のイメージをダブらせて「金閣焼亡」(きんかくしょうもう) にからむ人間模様を幻をみるごとくに思い出しながら盃を重ねたのだった。