sasa09.jpg

 

 おそらく東京近辺の山好きな人を除けば、笹尾根といわれても何処にあるのかさっぱり分からないだろう。しかし休日ともなれば多くの人が押しかけるあの高尾山に連なる尾根だといえばその場所は大体見当がつくのではないだろうか。地形図を開くと多摩川の上流にあたる奥多摩湖の南に標高1528mの三頭(みとう)山が聳えているが、この山から東南方向に山が連なっているのが分かる。東京都と山梨県・神奈川県の県境にあたるので甲武相国境尾根と昔はいわれていたがいつの頃からか笹尾根というようになったらしい。この尾根の北側には多摩川の支流南秋川が流れ、南側には相模川の支流鶴川が流れている。どちらの谷にも昔から人が住んでいたのでこの尾根にあるいくつもの峠は南と北の谷あいの人たちが行き交う生活の道でもあった。だから大変人の匂いのする尾根でもある。

 

 三頭山を最高峰にだんだんと低くなっていくが槙寄(まきよせ)(1188m)・西原(さいはら)(数馬峠)・ 笛吹(うずしき)峠・丸山(1098m)・小棡(こゆずり)峠・土俵岳(1005m)・日原(ひばら)峠・浅間(せんげん)峠・熊倉山(966m)・三国峠・生藤(しょうとう)(990m)・和田峠・陣馬山(855m)と続くこの辺りまでを笹尾根と呼ぶことが多いらしい。しかし日原峠か浅間峠あたりまでとする人もいる。尾根はさらに景信(かげのぶ)(727m)・小仏(こぼとけ)峠と続いて高尾山(599m)に至り、やがて里山となり丘となって武蔵野台地に消える。三頭山から陣馬山までは地形図上で直線距離17kmになるが、私はこれまで部分的には歩いているもののこの長大な尾根を全部歩いたことはなかった。そこで若い頃からよく一緒に山に行った亡友とこの尾根を全部歩いてみることにしたのはもう大分前のことになる。若ければ尾根上で一回ビバークすれば楽に歩けるだろうが、歳をとってはそうもいかず、三頭山から陣馬山までを東京から日帰りで4回に分けて 3月から 6月にわたって歩く計画を立てた。

 

326日 三国峠から陣馬山まで

 

 JR中央線上野原駅前 946分発のバスに乗り石楯尾神社前で下りていよいよ歩き始める。笹尾根の南側から尾根に取付こうというわけだが、バスを降りたのは我々 2人だけだった。佐野川峠までまず登り、そこから三国峠(三国山)を目指す。合わせて約100分の登りだが途中に桜の木がたくさん生えていた(植えたものらしい)。町ではそろそろ桜の花が話題になる季節だが低いとはいえ山の上はまだ冬の姿のままだった。三国峠は甲武相 3国の接する所で好天に恵まれたこともありこれから辿る笹尾根の彼方に三頭山が堂々とした姿を見せていた。(写真上)

 

 今日の最高峰生藤山はすぐ目の前で10分くらいで着いたが頂上からの展望はきかない。今日は東に陣馬山まで歩くのだが右手はるか彼方に高原状の穏やかな山容を見せている。足元を見るともうスミレがところどころに咲いている。和田峠までは生藤山のきつい下りを除けば尾根道を歩くのはそれほど辛くはなかったが思ったより時間がかかり約2時間で到着。この峠は今は車が通るが昔も今も茶店がある。ここから頂上までは階段状の道を一直線に登って30分ばかりだが、朝から歩いてきた身体にはちょっときつかった。頂上には15時に到着。今歩いてきた尾根を振り返ると生藤山が意外と立派に聳えている。山頂はひろびろとして気持よく高尾山のほうから来た何人かの人に会った。

 

 この山には30年位前の思い出がある。職場の同僚たちと麓の二色鉱泉に泊った時春の大雪に見舞われて、翌日膝くらいまである雪の中を登り、真白な陣馬山に感動しながら頂上に立った。今回の登頂はおそらくそれ以来のことと思うが、それを思い出して二色鉱泉の近く(栃谷)に下るコースを取って藤野駅に着いたのは1730分だった。歩き始めてから7時間と少し経っていた。

 

428日 日原峠から三国峠まで

 

 今回は日原まで行くバスの便がないので上野原駅前 833分発のバスに乗って棡原(ゆずりはら)中学入口で下車し、まず日原に向かい(約50分)そこから峠に登り始めた。このあたりは昔から長寿の村として知られている。日本全体が長寿になってしまった今は果たしてどうなのだろうか。日原峠までは約90分かかったがさすがに古い峠道らしくよく踏まれており、傾斜も特にきついこともない。やや暗い杉の植林の中を快調に歩いていくとじめじめした辺りでヒキガエルの大群に出会ったのにはビックリした。とにかく細い道の上や端に数え切れないほどの蛙がじっとしているのはいかにも無気味だ。産卵期でいっせいに水のあるところに向かっているのだろうか。うっかりすると踏んでしまうので緊張して通過した。峠への途中には寛政4年(1792)の石仏や明治・大正の石仏が立っており、数知れない多くの人が踏んだ道なのだと改めて感じさせてくれる。季節も進み、山の木々の新緑が実にすばらしい。 

 

sasa06.jpg  sasa03.jpg 
 

 日原峠はやや広い鞍部で、展望はないが木々に囲まれてしっとりと落着いた雰囲気を醸し出している。小さな石の仏さんが立っているのが、この峠が人々の生活と結びついていたことを教えてくれる。いかにも情緒豊かな印象に残る峠だ。山は春の花の季節を迎えていたが、山道が概して日のあたらないところなので何種類かのスミレのほかにはチゴユリ・ヒトリシズカ・マムシグサのような地味なものが多かった。やや色の目立つものにはイカリソウや木の花でヤマブキ・ツツジがあったが数は少なかった。しかし浅間峠・熊倉山を経て三国山までの3時間弱の尾根歩きは実にすばらしかった。時々山桜の白い花が遠く近くにかたまって見える。やや遠い山肌は湧き立つ様な新緑が杉の暗い緑を押しのけるように輝いている。まさに春の訪れを山と一緒に祝福している気分だ。老杉の根元に浅間神社の石祠が鎮座する浅間峠を過ぎて熊倉山を越えると三国峠はすぐだ。ここからは3月に登った道を下って石楯尾神社前のバス停に出た。この日は途中誰に会うこともなく、新緑を満喫した静かな 7時間15分の山歩きだった。

 

69日 槙寄山から日原峠まで

 

sasaone10.jpg
 

 5月に予定していた日が雨でだめになり結局6月になってしまった。梅雨入り直前だったが幸い雨は降らず一日中曇りでかえって歩きやすかった。またまた上野原駅前から 828分発飯尾行のバスに乗って約50分の郷原で降りる。中年の男女二人も一緒に降りて早速準備体操をしていたが、我々はすぐに登りはじめた。急な山道を我慢して登ること約 2時間、やっと道が緩やかになったと思ったら西原峠だった。これは南側の地名で、北側の地名をとって数馬(かずま)峠ともいう。石仏もなく、あまり人の匂いのしない峠だ。空ではしきりにホトトギスが鳴いていた。山の緑もすっかり深まって落着きを示し、いかにも初夏の到来を感じる。足元ではフタリシズカがちょうど花の見ごろを迎えていた。峠からほんの数分の登りで今日の最高峰槙寄山に着いた。すぐ近くに権現山・扇山、その向こうに道志の山々を見ることができるがそれより遠くを今日は見ることができない。数馬から登ってきた人と山頂で少し話しこんでしまったが、12時には腰をあげていよいよ笹尾根の中心部を歩き始めた。

 

 地形図の上では日原峠までは相当の距離になるがよく見るとあまり起伏のない尾根道のようだ。いったん西原峠に戻り東へ笛吹(うずしき)峠に向かったがわりに幅の広い尾根なので平地を歩いているようにも感じる。この辺りにはコアジサイが群生しているが花には少し早いようだった。また笹の茂る中を歩く箇所がいくつかあったが、「笹尾根」というわりにはこれまでほとんど笹にはお目にかからなかった。この尾根の南側、山梨県の方は実に見事に杉の植林がされているが、北側、東京都の方は植林されているところが少ない。尾根道はこの県境を通っているのでこうした様子がよく分かる。尾根の南側に植林される以前は稜線の辺りには笹が生い茂っていたのだろうか。今回歩いてみて分かったことは笹尾根という名称の実態がすでに失われているということだった。 

 

 1時間10分ほどで笛吹峠に着いた。峠には表に「大日」、裏に「百番塔」と彫った自然石が立っている。よく見ると小さなひらがなで「みきかつま ひたりさいはら」と彫られていて道標でもあったことが分かった。やがて小棡峠を過ぎるとちょっときつい登りにかかる。何度もだまされてやっと土俵岳の頂に立つとあとはほんの10分ばかりで日原峠だ。この味わいのある峠まで笛吹峠から1時間35分。 日原発1630分のバスに余裕を持って間に合い、今は珍しくなった火の見やぐらを仰ぎ見ながらバスを待つ間持参のウィスキーで乾杯した。この日も槙寄山以外では誰にも会わない 7時間弱の山歩きだった。

 

621日 三頭山から槙寄山まで

 

 いよいよ最後の尾根歩きは初めて北側から登ることになった。JR五日市駅前は土曜日のうえ梅雨の最中なのに好天に恵まれたこともあって山へ行く人たちで混雑していた。これまでがあまりにも静かな山歩きだったのでなにやら別の世界に来たような気がしないでもなかったが、818分発の都民の森行バスに乗り、数馬を通り過ぎて 1時間ちょっとで終点に降り立った。標高1000m位あるのだが天気がよいだけにとにかく暑いし、人も多い。バスで楽をしただけにすぐに始まったきつい登りには参ったが、いい頃合に鞘口(さいぐち)峠の冷たい風に救われた。三頭山の辺りは植林されておらず太いブナの木など自然の森が今も残されているのがうれしい。山頂までのきびしい登りを家族連れや中高年のグループなどと後先になりながら頑張ったが、峠から山頂までの1時間ほどは暑いせいか本当にばてた。笹尾根歩きでは初めての経験だった。 やっと登りきった東峰には標高1527.5mの三等三角点がありしっかりした見晴台が出来ている。あいにく気温が高いので遠くの山は見えないが疲れが癒された。ほんの少し歩くと1531mの主峰の頂きに着く。これで今回の山行の目的地に到達したことになる。しかし笹尾根踏破の目的はまだ達成していないので喜び半分で同行の友人と握手する。

 

 この日は歩き始めたときから終始シャワーのように蝉の鳴声を全身に浴びながら汗を流して歩いた。近くの木を見上げてもさっぱり蝉の姿は見えないが、日がかげるとぴたっと鳴声がやむ。遠くにはかえるのような鳴声も聞える。あとで都民の森の事務所に問合せたところエゾハルゼミの鳴声と判明した。かえるのようなのは分からなかったが9日の山行より確かに季節が夏に向けて進んでいることを実感した。山頂から少し下ったところで昼を済ませていよいよ槙寄山に向かう。三頭大滝への分岐までは登山者が多いがそこを過ぎると歩く人はほとんどいなくなる。それでもやはり土曜日だからだろうか逆方向から来る人もいてこれまでのような静かな尾根歩きというわけにはいかない。足元に花を見ることもなくなり、やがて赤松がかたまって生えているところを過ぎたら槙寄山の頂上だった。1315分、これで笹尾根踏破の願いがかなったことになる。友人と固く握手して記念の写真をとる。あとは西原峠から数馬に向かってはじめて北側の斜面を下るだけだ。

 

 峠を下るとしばらくはコアジサイが目立つが咲き始めた花はずいぶん白いように感じた。鼻を近づけるとかすかにいい香りがする。私の好きな花の一つだが、近くに咲いていた白い装飾花の小ぶりなヤマアジサイも清楚でなかなかいいと思った。山の雰囲気も北側斜面なのに山梨県側とは違って落葉樹が多いせいか明るく感じられたが、後半は道が深くえぐれて雨の時には絶対歩きたくないところだ。登山家田部(たなべ)重治が1947年に雨の中を この道を歩いて、「下るにつれ、道は深くえぐれて溝のようになっているところを水が流れ、滑ることおびただしい。滑るまいと思うとつい駈足になる。この道も相当に長い。」(「多摩川より秋川へ」)と書いているのに、おおいに同情と同感を覚えるとともにこんな昔から同じような様子だったのには驚いた。歩き終ったところは仲ノ平、田部の愛した山崎旅館の近くだが今は村の温泉数馬の湯のほうが有名だろう。かくて、4回の山行の中では一番短い 5時間30分の山歩きで我々の笹尾根踏破の計画は無事完了し、缶ビールの乾杯で締めくくられた。後はバスに揺られて帰るだけである。

 

*   *   *

 

sasa08.jpg 
 

 日本アルプスと奥秩父登山の先駆者の一人として知られている田部重治は多摩川や秋川上流の山を愛しよく歩いた。「数馬の一夜」1920年)は年配の山好きには懐かしい文章だが、彼が39歳のときに書いた「山に入る心」(『新編山と渓谷』岩波文庫)ではこんなことを書いている。若い時には「山に登る欲求は山全体に対する趣味、即ち渓谷、幽林すべてに対する鑑賞から来ているのではなくて、絶頂を極めることに存していた。しかし今の私は山のすべてに対する親しみをもたんとしている。」「私は心の底から山と融和することが出来るという感じが、追々、自然に私の心の底に湧きつつあることを感じている。」「最もよく自分を迎えてくれる、自分というものをひしとつかむことが出来る」ような「こういう経験を多摩川の支流秋川の上流を遡」り本宿や数馬に一人遊んだ時に最もよく味わった、と。私もよく一人で山に行っては親を心配させた。笹尾根に同行した友人も奥秩父が好きで雁坂小屋を足場によく一人で歩いていた。だから二人で山に行くことはそんなに多くはなかった。しかし互いに歳をとり、体力にも自信がなくなると気楽に一人で山に行くことも出来なくなってきた。今回の笹尾根歩きはお互いに自分の体力の再確認でもあった。山では休むとき以外はマイペースということで、あまり離れ過ぎないようにしながらそれぞれに一人歩きを楽しんだ。だから田部のこうした山への思いはとても心にしみる。

 

 田部重治の山登りは1908(明治41年の妙高山に始まるが、この翌年 5月に木暮理太郎と景信山から笹尾根を歩き、途中で野営して数馬峠を南に下りさらに多摩川に出て雲取山に登っている。『わが山旅五十年』(平凡社)に残されている記録は笹尾根縦走の最も古いものではないだろうか。時代の変化と植林事業によって山の自然が大きく変貌してしまう前の笹尾根の様子を伝えてくれる貴重な証言だろう。今の様子との違いには驚くばかりだ。

 

飯田町一番の汽車にのって浅川町で下車したのはまだ早朝だった。そこから旧小仏峠への街道を登って、峠の頂上の手前から材木を伐り落す急斜面を登って、景信山の頂上に辿りついたのが九時ごろだった。ここから尾根を行くたのしさとてはなかった。当時はこの尾根には立木がなく、一面に茅が密生して間に細い道があった。そこを行くと時折、キジが驚いて飛び立つのにこちらも驚いた。天気がよく富士山がよく見え、ツツジや藤の花が多く、ワラビの多いのにも驚いた。陣馬ガ峰に辿りついたのが十一時ごろで、そこから和田峠の頂上へ下ると一軒の茶屋があってそこで昼飯をたべた。そこにお爺さんとお婆さんとがいて、お婆さんは生死の境にあるような青白い顔をして、身じろぎもせず、日向ぼっこをやって居り、お爺さんはよろよろしながらお茶を出してくれた。 ここから連行山を越え、そろそろ野営によさそうな場所を捜しながら水を求めて歩いたが、どこにも水がない。(斜面を少し下ったところで野営をして神秘的な山の夜の体験を初めてする)

 

この尾根は大体において高さは三千尺から四千尺ぐらいかと思われたが、それでも進むにつれ、いくらか高くなるようだ。途中ツツジが多くワラビも多い。だんだん、今まで目につかなかった山が見えてくる。左に権現山、真正面には大岳、御前山、三頭山が聳えている。私たちの歩いている尾根が三頭山につづいていることが、進むにつれあきらかになって来た。この山はそのころ全く得体の知れぬ山だったが、この尾根とそれとのつづく右が低くなって渓谷らしい形をなしている。(中略)樹林が深い。だいぶ登ったと思うころ、しばらく前からくもりはじめた空が、にわかに大粒の雨をふらし、雷鳴を伴なっていた。私たちは着ゴザを身につけて、せっかくのぼった道をかけおりた。地頚になっているところは数馬峠で、私たちは充分の思慮もなく、教えられたままに小菅へと目ざして一目散に甲州側におりはじめた。

 

 それにしても昔の人はよく歩いた。村の人も、登山の人も。歩かなければ目的地に着けなかったからだろうが、田部重治がはじめて数馬の山崎旅館に泊ったときも、北秋川と南秋川が合流する本宿に泊って、翌日北秋川から御前山を往復してさらに浅間尾根を越えて数馬に入っている。本宿から時坂を経て浅間尾根に登り南秋川の人里に下ってからさらに笹尾根を越えて西に向かう道は、小仏峠を越えるようになる前の古い甲州街道であったという。

 

 笹尾根歩きはまた珍しい地名との出合いでもあった。南秋川では人里の辺りに笛吹・事貫というのがある。それぞれ「へんぼり・うずしき・ことつら」 と読むそうだが、どうしてこのような漢字になるのか知りたいところだ。また上野原のほうでは、3月にバスで通ったところに「御霊・先祖」というのが隣り合ってあり、少し離れて「墓村」があった。住んでいる人には申しわけないがなにやら無気味だ。きっといわれがあるのだろうが。「聖武連」と書いて「しょうむれ」というのもある。山歩きをしているといろいろと珍しい地名にお目にかかるものだと思う。