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沙羅の木

 

褐色の根府川石に

白き花はたと落ちたり

ありとしも青葉がくれに

見えざりしさらの木の花

 

森林太郎先生 詩

昭和廿五年六月

永井荷風 書

 

父鷗外森林太郎三十三回忌にあたり弟

妹に計りて供養のためこの碑を建つ

昭和二十九年七月九日 嗣 於菟

 

 

 
 

 2012年に開館した森鷗外記念館の庭にある鷗外の詩碑である。1 行目は 「かちいろのねぶかわいしに」 と読む。建碑の事情は詩碑にある通りだが、発案は文学散歩で知られる野田宇太郎、書いたのは永井荷風、設計は谷口吉郎である。谷口は建築家だが、彼の設計した文学碑は多い。

 

 記念館の建つ場所 (東京都文京区千駄木) は、鷗外の邸宅の跡にあたるが、北千住から両親とともにここに移ったのは1892 明治2530歳の時で、その後60歳で亡くなるまで家族とともにここに暮した。2 階の部屋からは遠く東京湾が眺められたので 「観潮楼」 と名づけられたという。

 

 鷗外はこの邸宅で、『青年』 『雁』 『高瀬舟』『渋江抽斎』 などの作品を書いた。しかし、没後に失火と戦災でこの邸宅は消滅してしまった。戦後は文京区の児童公園となり、図書館が建てられて1962 昭和37年には森鷗外記念室が併設された。やがて図書館の移転に伴い生誕150年にあたる2012 平成2411月にこの記念館が開館した。 記念館は団子坂の上に位置し、地下1 階、地上2 階でやや特異な外観を呈している(写真下)。

 

 この邸宅跡を戦後半年の1946年早春に訪れた野田宇太郎は、「邸跡索莫、旧門のあたりの一樹の銀杏古木もいまだ死せるが如く芽もふかず、裏庭に当る一隅に「文章世界」 が寄贈した在りし日の鷗外の大理石胸像が痛々しく光りに晒され、その脇に、一本の棕櫚の木がその胸像を守るかのやうに傷ましく物悲しげに、焼けただれた姿で細々と立ってゐた。その後棕櫚の木も蘇り、新しい扇のやうな芽を吹いた」と記している。(『新東京文学散歩』)

 

 記念館は、この門の跡や大きな銀杏の木、庭石など庭の一部を保存し生かすように設計されており、庭からの入口には佐佐木信綱が書いた「観潮楼址」 の石が壁に貼られている。

 

  ところで鷗外はここで歌会を主宰し、佐佐木信綱・与謝野鉄幹・伊藤左千夫・石川啄木・吉井勇・木下杢太郎らが参加し、また雑誌『スバル』 1909 明治42年創刊) の後見人でもあった。従って壮年、青年の作家・詩人・歌人の多くがこの邸宅に出入りした。永井荷風もその一人で、深く鷗外を尊敬しており、死の前日に特に許されて対面している。「先生は仰臥して腰より下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまへり。鼾声唯雷の如し」と日記 『断腸亭日乗』 に記している。

 

 なお、詩の 「沙羅の木」 は夏椿ともいわれ庭木としてよく植えられるが、この詩の通りなのは「姫沙羅の木」 なので、私は鷗外が見たのは姫沙羅の木ではないかと思っている。この木も庭木としてよく植えられている。