DSC05403bc.jpg 

DSC05408bc.jpg 

DSC05405bc.jpg

 
1274 文永11年四天王寺で賦算を始め、熊野大社で信仰を確立した一遍は九州を遊行の後東北に祖父の墓参の途次、信州佐久で踊り念仏を始めた。
それから鎌倉・名古屋・大津を経て、1284 弘安 7年に京都の釈迦堂を参詣した。

「一遍聖絵」では賀茂川の四条大橋を渡ると釈迦堂の場面となる。
建物に囲まれた狭い境内に踊り屋が建っているが、踊り念仏はやっていないようだ。
一遍らしい僧が念仏札をくばっている。
「聖絵」には「貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」とある。

この場面で 7台の牛車(ぎっしゃ)が描かれている。
牛車は中流以上の貴族のマイカーで、檜皮(ひわだ)や竹を網代に編んだ屋根が多いのでこの場面の絵では高級な貴族がいたようだ。

熊野大社参詣から10年、一遍の存在が都にも知れわたっていたことがわかる。


  
DSC05258.jpg
 
 
DSC05260.jpg
 
 
DSC05261.jpg
 
 
DSC05262.jpg
 
DSC05255.jpg
 
 
釈迦堂というと嵯峨野の清凉寺が知られているが、
その奝然(ちょうねん)の釈迦像がここにもまつられていたという。
それで釈迦堂というが本尊は地蔵菩薩で、その由緒は説明板に詳しい。

驚いたのはその場所で、新京極と四条通りの角に交番がありその隣りに甘栗屋がある。店に入って右手の戸を開けると地蔵堂の前に出る。
店は創業明治 7年とあるので、その頃は地蔵堂もよく見えたのかもしれない。


京都随一の繁華街に埋もれるように今もある釈迦堂(地蔵堂)
その歴史を訴えるかのような大きな説明板に関係者の思いをみるように思った。

(「聖絵」 の写真は 『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』 中央公論社 による。)