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 大阪のJR天王寺駅から徒歩10分くらいで四天王寺の西の入口に着く。
 この寺は聖徳太子の発願によるものでもっとも古い歴史を持つ寺院の一つだが
平安時代の末に浄土信仰が盛んになると、法皇や貴族たちの参詣が盛んとなった。
 鎌倉時代以降には浄土信仰と太子信仰が庶民にまで広がって大変賑わうようになり今日に至っているという。

 駅から歩いていくと最初に大きな石の鳥居に出会う。
 正面上の額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてある。「釈迦如来が説法された聖地であり、西門は極楽の東門にあたる」という意味だそうだ。

 鳥居をくぐると正面に西門が建っている(1962年再建)
 この門と鳥居の間が浄土信仰の聖地で春分・秋分の夕暮れには太陽は鳥居の中心にかかり西に沈んでいった。
 昔は海が近くまであったので海に沈んだ。鳥居の向こうはまさに極楽に直結。
 極楽往生を願う人たちにはこの空間は昔も今もまさに聖地だった。


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 一遍(1239~89)は幼くして出家したが父の死で還俗、1271年に再出家したという。1274年には超一(妻)超二(娘)念仏房(従者)と故郷伊予(愛媛)から遊行の旅に出た。一行はやがて四天王寺に参詣した。「一遍聖絵(ひじりえ)」にも「この伽藍は釈迦如来転法輪の古跡、極楽東門中心の勝地なり」と書いてある。

 一遍はここで初めて念仏札をくばった(賦算、賦はくばる、算はふだ)
「聖絵」には西門の下で札をくばる一遍の姿が描かれている。その左には木の大鳥居が描かれている(石になったのは1294年)。その左はもう砂浜と海で、写真はないが海の絵が続く。「聖絵」には「一遍の念仏をすすめて衆生を済度しはじめたまひけり」とある。

 一遍はこの後高野山・熊野へと遊行の旅を続け、熊野大社で信仰を確立する。
やがて新宮で念仏札の形木を渡して妻らとも別れたが、その形木には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いてあった(聖絵)

 上の写真は藤沢の遊行寺でいただいたものだが文字が全く同じだ(2×8cm)
 一遍が四天王寺でくばった札もこのようなものだったのだろうか。
 同寺の聖地には数限りない人々の思い、願いが重なり合っていることだろう。

 後鳥羽法皇の歌と伝える。

 難波がた入りにし日をながむれば よしあしともに南無阿弥陀仏

  (「聖絵」 の写真は 『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』 中央公論社 による。)