ある出会いがその人の一生を決めてしまう話は小説や映画の世界では昔も今も珍しくはない。そして私たちの回りでもそれほど珍しい話ではない。それが劇的であるか否かを問わなければ。

 第一次世界大戦末期の1918年、パリの地下鉄の中で若い男女、ピエ ールとリュースが運命的に出会う。

 

彼が眼をあけたときに-彼から数歩のところに、他人の二つの体に隔てられて、今乗ったばかりの一人の娘がいた。初めは、彼女の繊細な横顔しか、帽子の陰に見えなかった、少し痩せた頬のうえに金髪の巻毛、感じのいい頬骨の上に明りがさし、反った唇と鼻のほっそりした線、半ば開いた口は急いで走ったためにまだ喘いでいた。彼の眼の戸口から、心の中へ彼女は入った。すっかり入ってしまっ た、そして戸はふたたび閉まった。外部の騒音は沈黙した。静寂。平和。彼女はそこにいた。」

 

 この出会いに始まる小さな恋の物語がすぐに分かる人はきっとだいぶ年輩の方だろう。なぜならロマン・ロランの小説 『ピエールとリュース』 は今では全集で探さなければ読めないからだ。しかし、私が大学生だった頃は彼の作品はその多くが文庫本で読めた。その頃は大学の先生からよく大河小説(大長編小説)を読むことを薦められた。 その第一にあげられたのが 『ジャン・クリストフ』 (ロマン・ロラン) だが、私には少し時代がかっていてあまりなじめなかった。むしろ、『チボー家の人々』 (マルタン・デ ュ・ガール)や 『静かなるドン』 (ショーロホフ)に感銘を受けたのを覚えている。しか し文庫本で読んだこの 『ピエールとリュース』 (宮本正清訳、みすず書房)には感動した。 何回も読んだ。ピエールと同じような歳だったからだろうか。電車通学だった高校生の頃に似たようなことがあったからかもしれない。
 

 ピエールが再びリュースに出会うのは古本屋が並ぶセーヌ川沿いの道を歩いてアー ル橋にさしかかった時だった。

 

眼をあげると、自分が待っていた彼女をみた。デッサン用のカルトンを小腋にかかえて、小鹿のように階段を降りてきた。彼はほんの一瞬の反省もしないで、彼女の方に飛び出して行った。そして、降りてくる彼女の方に上って行く際に、二人の眸は初めて交わされ、入りこんだ。彼女のまえに着き、立ちどまって、彼は 顔を赤くした。びっくりした彼女は、彼が赤くなるのを見て赤くなった。彼が息をつぐ間もなく、牝鹿のような小さな足はすでに通りすぎていた。」

 そしてリュクサンブール公園での三回目の出会いから彼等は友達となり、公園でしばしば楽しいひとときを過すようになった。ピエールは18歳の学生、家は中産階級で半年後に徴兵が待っていた。リュースは彼より少し年上、貧しい母子家庭で近くの美術館に通って絵の模写をしては売ることを仕事にしていた。やがて二人は郊外に出かけ、時にはリュースの家を訪ねて愛を深めていった。別れを惜しむピエールが 「窓の方に戻ってきて、閉まった窓硝子に唇を押しあてた。彼らの唇は硝子の壁をとおして接吻した」 ということもあった。しかし、彼等の恋には戦争が重く覆い被さってい た
。(ガラス越しのキスが有名になった東宝映画 「また逢う日まで」 (今井正監督、岡田英次・久我美子主演、1950年) はこの小説の翻案。)

 

 この小説は扉に 「1918年 1月30日から 3月29日までの物語」 と書かれている。 1914年に始まった世界大戦は、1917年のロシア革命とアメリカの参戦で大きな転機を迎え、翌年になると社会主義ソ連と停戦したドイツが西部戦線に総力を傾けた結果英仏は危機にさらされることとなった。ドイツ軍はパリに迫ってきた。毒ガス・タン ク・飛行機が大量殺戮の武器として登場したのはこの世界大戦だった。パリの市民はドイツ軍の攻撃を恐れ、多くの青年にとって徴兵・戦闘・戦死は他人事ではなかった。 

 「ヨーロッパの良心」 といわれた平和的自由主義者ロマン・ロランは社会主義とは一線を画しつつも 「戦いを越えて」(1914年)を書くなど戦争に反対していた。この小 さな恋物語にも彼は時代の暗鬱な空気とそれを逃れることのできない若者の恐れ、怒 り、悲しみを込めずにいられなかったのだろう。この小説が書かれた1918年 8月にはまだ戦況の先が見えなかったが、9月以降には急速に英仏側の勝利に傾いていった。 この小説はまさに同時代小説であり、もし、もう半年遅くこの小説が書かれていたならばピエールとリュースの運命は変わっていたのかもしれない。 

 3月29日の聖金曜日に二人の姿はノートルダム寺院の礼拝堂にあった。高い天井に響くパイプオルガンや聖歌隊の歌声、大きな石柱の近くにうずくまった二人は至福の感情に満たされていた。しかしその直後に悲劇が待っていた。

 

その同じ瞬間に、彼等が凭れていた大石柱が揺いだ。そしてその礎までも、教会全体が震動した。リュースは心臓の鼓動のために、爆発の音も群集の叫喚も消えそうだったが、怖れる間も、苦しむ間もなく、親鶏が雛をまもるように自分の体で彼をかばうために、ピエールの上にのしかかった。彼は幸福に微笑していた。母親らしい動作で、彼女は渾身の力をこめて、いとしい頭を自分の乳におしつけた。そして彼の上に折りかがみ、彼の襟首に口を当てて、彼らは小さく小さくなった。すると巨大な石柱が、彼らの上に、どっと崩れた。」


 私はパリに行ったらぜひ訪ねてみたいところがいくつかあった。ルーブル美術館やオルセー美術館は当然として、ロダン美術館、パンテオン、アカデミー・ジュリアン、 リュクサンブール公園、それにアール橋などだ。パンテオンについては前に書いたが、公園とアール橋は若い私の心を捉えたピエールとリュースの物語ゆかりの場所である。

 セーヌ川の岸に店を出している古本屋(写真左)を見ながらルーブル美術館に近づくとアール橋 (Pont des Arts)の袂に着く。この橋は日本語に直せば美術橋だが、ルーブル美術館の東寄りの位置に架かっている歩行者専用の橋である。橋を渡ると道路に出るのに数段の階段を降りることになる。橋の上にはアクセサリー売りや似顔絵を描く絵描きが居たりする。しかし、私にとってはなによりもピエールとリュースの橋だった。リュクサンブール公園やパンテオン周辺の学校街もそんなに遠くない。私はパリに行くたびにこの辺りを歩き、この小さな悲しい恋物語を必ず思い起していた。すてきなリ ュースが橋を渡ってくる姿や二人の公園での語らいを思い描きながら。

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  ロダン美術館は、ナポレオンが葬られている金色屋根のアンヴァリッドのすぐ隣りにある(写真右)。よく知られているので見学者が多いが、ここにも悲しい愛の物語が満ちていた。 ロダンが晩年に住んだビロン館(ルイ15世時代のビロン公爵の館)が美術館となった館内には、今ではモンパルナス駅に近い交差点に堂々と立っているオーバーコート姿のバルザック像のいくつもの習作をはじめ生命感に溢れるロダンの作品が実にたくさん展示されている。有名な 「考える人」 や人気の高い 「接吻」(Le Baiser)、男が片手を伸ばしてやはり接吻している 「永遠の青春」(L'Eternel printemps)をはじめ 「フギ ット アモール」(Fugit amor、愛は去りゆく) といった作品は、いずれも大作 「地獄の門」 の群像から独立して作品となったものだ。

 私がロダンの彫刻に惹かれるきっかけとなった左手を前に伸ばした女の立像(Faunesse debout、
立てるフォーネス)も門の右上の隅にある。そして 「地獄の門」 の構想がダンテの 『神曲』 地獄篇に深く影響されていることもまたよく知られている。 私が手に入れたロダンの彫刻ばかりのカレンダー(フランス)では、1月 が 「接吻」、12月が 「永遠の青春」 となっている。この二つの男女像は一般に幸福な愛の象徴、青春そのもののように思われているが、果たして本当にそうなのだろうか。

 『神曲』 では、詩人ダンテは同じく詩人のヴィルジリオの案内で 「地獄」 の第二圏に至る。そこは愛欲に耽った者たちが烈しい風に吹きまくられて休むこともできない恐ろしいところだった。「やむまもなく吹きすさぶ地獄の業風が、亡者をひきとらえ、追い立て、打ちまくり、投げ散らし、責めの限りをつくす」 「私は知った、このような烈しい呵責が、理性を失い愛欲にふける、肉の罪人たちの行きつく果てであることを」
(第5歌、寿岳文章訳)。ダンテは、「つねに離れず、頬よせて」 風に吹きまくられている二人と話すことを希望する。

 

  この二人こそ北イタリアのラヴェンナ城主の娘フランチェスカとその夫である隣国城主の弟パオロだった。やがてフランチェスカはダンテに話し始めた。パオロと二人でアーサー王の物語を 読んでいたときに二人の気持が高ぶり口づけをしてしまったと。また、この道ならぬ恋のほむらは決して消すことが出来ず、それを知った夫(城主)に二人は殺されてしまったが、地獄におちたいまもこの思いは永遠に続くのですと。

(アーサー王の物語を)ほかに人は居らず、たれはばかることも無く。読みもてゆくうちに、いくたびかふたりの眼は合い、顔は色変えました。(中略) こがれてやまぬほほえみが、思うひとの口づけを受けたくだりを読んだとき、永久に私と離れないあのひとはうちふるえ、私の口を吸いました。 恋しいひとを、ただひたすら恋いずにおれぬ恋のほむらは、そのひとをいとおしむ烈しい喜びに私をくるみ、その思いは見らるるように、今も私を離れぬ。 恋のほむらは、われらふたりを一つの死に導いた。(寿岳文章訳)

 

  実は、フランチェスカの結婚相手はパオロだとだまされて、兄の城主と結婚するこ とになってしまったのだという。それぞれに子供がいながらも道ならぬ恋におちいってしまったこの悲しい愛の物語は、詩人や画家たちの心を動かしていくつもの詩や絵画が生み出された。

 イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの水彩画に 「恋人たちのつ むじ風、パオロとフランチェスカ」 がある。画面の右手には一人の人物が立ち、その足元に女性が横たわっている。ダンテと話をするために旋風から離脱したフランチェ スカだろうか。立てる人物の上には輝く光の中に抱き合う男女が描かれている。おそ らく夫を、兄を裏切ることとなった二人であろう。画面の下から左上に向けて大きなつむじ風が吹き上げている。風の中には無数の恋人たちが向き合ったり背中あわせだ ったりしながらその多くが手足を伸ばして飛ばされていく。中には口づけをしたまま手を横に伸ばして飛ばされていくのもいる。

 もう一度ロダンの彫刻を見てみよう。「接吻」 の男の左手は女から離れ、二人のからだは密着していない
(写真左)。「永遠の青春」 の男は左手を横にまっすぐ伸ばしたまま口づけを している。本当に幸せな喜びに満ちた抱擁、口づけならばこういう不自然な姿となるだろうか。私にはウィリアム・ブレイクの絵がそれに答をくれているように思われる。

 

  「接吻」 は口づけをしながらも罪におののくパオロとフランチェスカを、そして 「永遠の青春」 は口づけをしたまま手を伸ばして風に飛ばされていく地獄の二人なのだと。 『神曲』 にも 「つねに相離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える」 とある。ブレイクは1827年に亡くなっているから、どちらも1880年代の作とされる ロダンのこの二つの彫刻を見るはずがない。逆にロダンがブレイクの絵を見て制作のヒントを得た可能性はあるだろう。「フギット アモール」 は女が下に、男が上になって(この逆もある)反り返ったからだを背中あわせにしている。やはり地獄で風に吹き飛ばされる二人が永遠に結ばれないことを暗示しているのだろう。ロダンは、「この二つの身体の結合によってパオロ とフランチェスカが生れました」 と語ったという。「男女の像をこのように組み合わせることで」 という意味である。

 かくてこれらの作品は、パオロとフランチェスカの悲しい愛のロダンによる造形化だといえる。しかし、目の前にある独立した彫刻から、それを見る者がなにを感じとるかはそのひとの自由だろう。ただ作品の彫刻としてのすばらしさが、これからも限 りなく多くの人をひきつけてやまないことは確かだろう。 フィレンツェに生れたダンテが晩年にはフィレンツェを追われて奇しくもフランチ ェスカの生れたラヴェンナでその生涯を終えたのは1321年である。

 

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  ロダン美術館には美しい建物の裏手に広い庭園がある。館内が混んでいてもこの庭園でゆっくりする人は少ない。庭には緑が多く、寒い季節には鴨が幾羽も池で羽を休めていたりする。庭には地獄の門をはじめいくつかの大きな彫刻が置かれている。 池の中にある群像は飢えで子供たちに襲いかかるウゴリーノだ。この群像も地獄の門の左扉中ほどに組み込まれている。

 ダンテが訪ねる地獄の最後は凍りついた沼で、そこで彼が見たのは相手の頭にかじりついているウゴリーノ伯爵の姿だった
(第33歌)。北イタリアピサの長官だったウ ゴリーノ伯は政敵のために捕えられて 4人の子供とともに投獄され、飢えのために悲惨な最期を遂げたと語る。最初の一人が死ぬと、「わしは残りの三人が、一人ずつ、五日目と六日目の間に仆れるのを見た。既に盲のわしは、手探りで一人一人の子供の骸を求め、死後二日にわたり、名を呼び続けた。が、悲嘆に勝てたわしも、断食には勝てなんだ」 と語り終えると、また相手の頭にかじりついた。この人間の尊厳を踏みにじる悲劇をウゴリーノを四つん這いにすることでロダンは強調したのだろう。

 「もしも此岸の世界の不正を糺す 《神》 の存在が心に思い描けなければ、私たちは永遠に地獄のごときこの世を生き続けるしかないであろう。《正義》 を約束する 《神》 の存在、《愛》 を通して垣間見える 《神》 の存在、これを渾身の力を振りしぼって歌いあげること-ダンテの詩学はそれ以外のものを目指さなかった」 と河島英昭が書いているが
(『神曲』 解説)、サロンに拒否された 「鼻のつぶれた男」(1864年)で登場 し、アカデミックな彫刻に挑戦し続けたロダンは、矛盾に満ち満ちている人間を真正面から見つめることで人間の真実を、生命を、愛を表現しようとしたのではないだろうか。なによりもロダン自身が矛盾に満ちたどろどろした存在だった。

 

  フランスの女優イザベル・ア ジャーニが若かったときに熱演した映画に 「カミーユ・クローデル」(1989年)がある。彫刻の大好きな少女がロダンの門を叩き、助手となってその非凡な才能でロダンの名声を蔭で支える。やがて彼の愛人となるが、夫人との関係や彫刻への自負からくり返されるロダンとの葛藤でカミーユの心は引き裂かれていった。こうした カミーユを熱演したイザベル・アジャーニのお蔭で、映画はカミーユの存在のみでな く、ロダンの存在についても強い印象を残してくれた。

 ロダン美術館にはカミーユ・クローデルの彫刻だけの部屋がある。ほかの部屋にはカミーユをモデルにしたロダンの作品がいくつもある。残された手紙によれば、この部屋の設置はロダンの願いでもあった
(レーヌ=マリー・パリス 『カミーユ・クローデル』)。 精神病院での30年間の孤独なカミーユの後半生を思うとき、この部屋で彼女の作品に接した私は本当に救われる思いがした。ロダン美術館にカミーユの部屋があって本当によかったとしみじみ思う。(写真右)