敦煌(トンコウ)はやはり遠かった。

 地図を見ると敦煌は北京よりはるか西の方にあり、つくづくこんなに遠くまでよく行ったものだと思う。今はもっと西まで行く人が珍しくはないから大げさに聞こえるが、私にはとにかく遠かった。

   20年以上も昔の話だが、東京から上海に飛び、さらに西安に飛ぶ予定だったが、予定した飛行機が飛ばなくなって上海に一泊、翌日の便で西安に着いた。ところがその次の日午後に予定した飛行機にまたまたなぜか乗れずに小さな飛行機で一日かけて敦煌まで飛んで行くはめになってしまっ た。かくて西安での一日半の観光の予定が半日になってしまい私たち10名の敦煌行きは出 だしからつまずいた感じだが、それでもあの堂々とした西門の城楼から西に伸びる道-シルクロードへの出発点をしっかりと胸に刻み込むことが出来た。
 
 西安で乗り込んだ飛行機は双発のプロペラ機で、日本人40名くらいと操縦士を含む乗務員 2名でほぼ満員の状態だ。頼りないことおびただしいが、乗務員もけっして死にたくはないだろうと信じることにして窓の外の景色を見ていたがやはり落ち着かない。しかし良いこともあるもので、大型機よりも低いところをゆっくり飛ぶので景色をよく観察できたのはうれしかった。

 西安を朝の9時過ぎに離陸して1時間半ほどで蘭州に着陸。そこで2時間の昼休みの後12時過ぎに出発し今度は2時間で嘉峪関に着陸した。万里の長城が西に尽きるところだ。 ここに来るまで目の下に広がっていた大地が河西回廊、諸民族の攻防が繰り返された地域だ(写真)。飛行機の進行方向左手に平行して連なるのが祁連(きれん)山脈ではるかかなたに青海を眺めることが出来た。右手に広がるのがゴビ砂漠、そして嘉峪関の北のほうを本拠に栄えた国が井上靖の小説 『敦煌』 に描かれた西夏だ。緑豊かな日本の自然を見慣れた目には、ほとんど茶色一色の広大な大地が無気味に感じられた。

 嘉峪関で1時間休憩してふたたび1時間飛びやっと敦煌空港に無事に着陸したのは16 時20分だった。怖かったことを除けばほとんど貸切バスの旅行といった感じだったが、半日の予定が一日がかりの移動となってしまったのが痛かった。
 

 
 敦煌は祁連山脈が西に尽きる辺り、昔の漢帝国の西の果てに位置するシルクロードの要衝で、その西には広大なタクラマカン砂漠が広がっている。多くの日本人に敦煌への関心が高まったのは、1958年に東京の敦煌芸術展で紹介された200点を超える壁画の模写と 1959年に発表された小説 『敦煌』 によるのではないだろうか。それを決定的にしたのが 1980 昭和55年に放映されたNHKの 「シルクロード」 であろう。しかしこの頃はまだ限られた人しか敦煌を訪ねることは出来なかった。

  1979年のNHKの取材班は、北京から飛行機で 2 時間半かかって蘭州へ、そこから酒泉(嘉峪関の近く)まで特急寝台列車に乗って17時間15分、酒泉からは自動車で砂漠の中を12時間くらいかかってやっと敦煌に着いている。 敦煌は地理的にはもちろん気持の面でも遥かに遠い彼方にあった。 私たちの敦煌行きが少々予定より時間がかかったからと文句をいってはバチ が当たるというものだろう。
 
 莫高窟の見学を終えた私たちはマイクロバスで陽関に足を伸ばすことにした。バスは敦煌の街を出るとすぐ砂漠の中を走るようになる。よくみると砂漠というよりは礫漠といっ た方がよいような荒涼とした光景だ。左手には低い山地、右手には広漠たる平地が広がりその中を一路西に向かってバスは走る。道といっても特に人間が手を加えたようには見えない。人が、車が通るから道になっているといった感じである。まさに魯迅のいう 「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(『故郷』)を実感する。
 
 途中で右に玉門関への道を分ける。陽関とならんで西域への出入り口だが陽関よりはだいぶ遠い。ところどころ木がかたまって生えているところは水の湧いているオアシスだと教わるがバスの窓からではピンとこない。道の左には一定の間隔を置いて烽火台が送電線の鉄塔のように立っている。いつの時代のものか知らないが、西の彼方から敵が攻めてきたときに陽関や玉門関で烽火(のろし)を上げると半日 で2000キロ先の都長安にその知らせが届いたという。
 
 

   紀元前 2世紀末、前漢の武帝が万里の長城の西端に置いた関所が玉門関で、敦煌の北西約 100km に位置する。同じ武帝の時代に玉門関の南約 70km、敦煌の南西約 70km に置かれたのが陽関で、閉鎖された時代もあったが唐代には再開されて大きな役割を果たしたという。2つの関の間にはほぼ 5km ごとに烽火台が築かれた。

  車は1時間ほどで陽関に着いた。大きな烽火台と 「陽関故址」 と刻んだ石碑が建ち、近 くには小屋があった。周囲は広漠とした平地で緩やかに大地がうねっているがおよそ緑がなく、人の住んでいる気配も全く感じられない。改めて日本の風景との違いを痛感する。 玉門関の南にあたるので陽関と言ったそうだが、唐代の詩人王維が西域に旅立つ知人に贈 った詩の一節 「君ニ勧ム更ニ尽クセ一杯ノ酒 西ノカタ陽関ヲ出デナバ故人(昔からの知人) 無カラン」 を実感することとなった(写真)。
 

 
 
 
 
陽関からの帰途、近くのオアシスにある小さな村に寄ってもらった。はたして村といえるのか分からないが 「南湖郷」 といって何軒かの家が集まっていた。短い時間だったが朱学森さんという子供1人の3人家族の家を見せてもらった。
 
 敷地は短冊形で北側に平屋の建物があり、南側には畑、南の端には豚小屋とトイレがある。北に面した出入り口の前には人の通る道、きれいな水の流れ、車の通れる道があり、 その向こうはぶどう畑になっている。出入り口を北から入ると左手が
 

 
 物置小屋となり、右手が住居になっている。住居は南北2室に分かれ、南側が台所と居間(写真上・中)、北側がベッドを置いた居室になっている。窓は東側の庭に面してついているが、居室には家具が少なく、台所には食器も炊事用具も大変少ない。日頃いろいろなものがゴチャゴチャとある日本の家を見慣れている目にはいかにもお粗末に感じられるが、考えてみればこれで十分生活は成 り立つのだとわかった。むしろ大変清潔で明るいのに感心した。庭には煉瓦が敷き詰められ、南の端には道具置場がありこれらの全体が塀で囲まれている。塀の南にはぶどうの乾燥部屋が接しているが、壁が煉瓦で網の目状に作られており明るく風通しが良い。
 
 
 
ぶどう畑に案内してもらった。大人の背丈ほどの支柱を立てて南に向かって斜めに棚が組まれ、その上をぶどうの枝が這うように延びている。断面は三角定規を立てたようになる。9月の初めだったが、ちょうど青い実の熟す頃で許しを得ていくつか摘んで食べてみたが甘くておいしかった。太陽の恵みを十二分に受けて熟したうまさだろうが、人の気配の全く感じられない砂漠の中にこのような作物と人の生活が存在することが信じられない思いだ。それにしても、敦煌の街との行き来や子供の教育などなど時間があればまだいろいろ聞きたいことがあったが残念ながら果たせずにこの小さな村を後にした。
 

 
 

 敦煌を去る前日、鳴沙山に夕日を見に行った。非常に細かい砂が造り出す砂山のやわらかな稜線が実に美しい。月牙泉を見下ろしながら20分も登ると山頂に着く。砂漠の彼方に沈む太陽のすばらしさもさることながら、その時刻が午後 9時というのは驚きだ。広大な領土にもかかわらず時差を設けていないためらしい。

 街の周辺の畑には綿・とうもろこし・黍などが稔り、綿は実がはじけて白い綿をのぞかせているのが私の小さい頃の農村での体験を思い出させてくれた。町中ではスイカ・メ ロン・はみうり・りんご・ぶどうなどがたくさん売られていて果物の豊かさを感じた。
 
 翌朝 7時半にすごく冷えた敦煌を出発し自動車で荒野を 2時間走って柳園駅に出たが、途中 8時すぎには遠くの地平線から卵形の太陽が昇ってきた。逆光に黒く立ち並ぶ樹木の眺めがすばらしい。土の表面が白いのは霜柱かと思ったが塩と聞いて驚いた。

 柳園からは飛行機で飛んで来たルートを今度は鉄道で逆に辿ることになる。11時 5分に出発したウルムチからの特急寝台列車は翌日の10時58分に蘭州に到着。ここで一泊して、次の日には飛行機で北京に飛んだ。

 日本の常識を捨てて中国の常識にやっとなじみ、冷してないビールを飲むのにもなれた頃、驚いたり、感心したり、怒ったりといろいろあった 2回目の私の中国旅行もいよいよ終りに近付いていた。

 敦煌はやはり遠かった。