会津のウォーナー記念碑
 
 福島県会津に勝常寺という古刹がある(湯川村)。天台宗(比叡山)を開いた最澄と論争したことが知られる法相宗徳一の開創と伝えている。徳一は平安時代の初めに東北地方に仏教文化を広めた僧として知られており、勝常寺の本尊薬師三尊像が平安時代初期の特徴をもつ堂々とした仏像で国宝に指定されていることがこうした事情を裏付けているといえよう。
 
 この勝常寺を訪ねた時にお堂の脇にウォーナーの記念碑があるのに気付いた。1981 昭和56年の建立のようだが碑石には次のように書いてあった。
 
 



「ラングドン・ウオーナー博士は一九○三年ハーバード大学卒二十一歳の頃東京美術学校に留学中は同校教授にして勝常寺中尊寺国宝指定並修理委員六角紫水氏の愛弟子で太平洋戦中は米軍の遺跡保護委員であった。/このウ博士のため六角氏が横山大観画伯と終戦の翌一九四六年七月十日東京築地の旅舎川村で開いた歓迎宴の席上先にウ博士らの提言により三古都が爆撃から救済された話に及ぶと三人は鼎座して互いに手を握りあいしばし感激の涙にくれた。/この時またウ博士は六角恩師に対し爆撃しない遺跡のリストの中に東北では昔先生から教えられた勝常寺のある会津と中尊寺地方を入れておきましたと報告した。/我らは今は亡きウ博士の遺徳を長く偲ぶためにここにこの碑を建てる。/一九八一年 夏 早川喜代次」
 
  大変分かりやすい説明だが、リストを作ったことと爆撃されなかったことが疑いようもなく結びついて理解されていることに戦後の恩人説の影響の大きさを改めて感じた。
 
 ウォーナー(Langdon Warner 1881~1955)はボストン美術館で日本美術長をしていた岡倉天心の助手を勤め、後にハーバード大学付属フォッグ美術館東洋美術長をしていたから日本美術に精通していたのは間違いがない。戦後1946 昭和21年には来日してアメリカ軍司令部の古美術管理の顧問をしていたとも言う。
 
日本でのウォーナー
 
 ところで、私が関心を寄せる會津八一が戦後早い時期に来日したウォーナーと会って いたことを最近知ったので、やはり伝説の信者であった會津八一とウォーナーの発言をみてみよう。

 戦争が終って約 1年の1946 昭和21年7月、上の話と同じ頃にウォーナーを囲んで日本電報通信社が座談会を催した。出席者は會津八一をはじめ岸田日出男・田中豊蔵・長谷川如是閑・武者小路実篤・村田良策
(司会)であった。

 岸田の「日本の古い建築文化というものが三%位の被害で助かった。これは大変幸福 であって、新聞などで見ますとミスター、ウォーナーの功績によるものであると承って深甚の謝意を表したいと思います。」といった発言に対して、ウォーナーは「京都、奈良の事について、それから都市が空爆を免れたということについては合衆国の政策であって私自身の責任ではありませんから、これは申さないで下さい」と答えている。

 會津八一のこの点についての発言は記されていないが、美術教育では実物に触れることが大切だということでウォーナーと意見の一致をみている
(『會津八一伝』 吉池進、1963年、p.649 ~652)

 しかし、1949 昭和24年の篆刻家銭痩鉄との対談 「のこる美術のこす美術」
(『中央公論』 1949年6月)で、會津八一は1946年の座談会を振返って「戦争の騒ぎの中でも日本の古美術は護らなければならぬ、奈良をはじめ京都、鎌倉、日光などを焼いちゃいかんといふことを米国の軍部に獻言して、それが容れられたといふことは隠れもない事実で、ほんとに偉大な功労を讃へなければならぬのに、それを話すにもはにかみながら「それは、これを容れた政府が賢明なので、なにも私自身の手柄ではありません」 かういった調子です。」(『會津八一全集』 第12、1984年)と述べているので、會津八一がウォーナー伝説を信じていたのは明らかである。

 ただ、興味深いのはこのときのウォーナーの発言で「京都、奈良の事について、それから都市が空爆を免れたということについては合衆国の政策であって私自身の責任では ありませんから、これは申さないで下さい」「それは、これを容れた政府が賢明なので、 なにも私自身の手柄ではありません」といった発言は、自分の功績に謙虚な発言ともとれるし、彼の助言で空襲を免れたのではないことを告白しているようにもとれる。はたしてこの時のウォーナーの真意はどうなのだろうか。


 なお、早稲田大学における東洋美術史の教育に関して、會津八一は実物に触れることを重視し、そのために日本や中国の美術・考古遺品を収集することに力を入れたことはよく知られている。そのコレクションを公開しているのが早稲田大学の會津八一記念博物館である。

 また、會津八一は 「古美術品の海外流出問題」
(1950年8月)といった文で、海外への流出は必ずしも悪いとは言えない。欧米の博物館などで公開されて衆生済度の役に立つならばそれも結構と言っている(『會津八一伝』 吉池進、p.653)。これは先の実物教育の重視の考えに基づくものであろうが、敦煌などにおけるウォーナーをはじめとする外国人研究者の所業を批判する立場とは遠いことを示していると言えよう。

 最後に、法隆寺の西円堂の近くにあるウォーナーの供養塔には、「同博士ローレーヌ夫人より託された遺品三点を収めている。遺品は博士の少壮時、当時渡米していた岡倉天心の贈った水晶の勾玉と漢時代の塗金小金具、これは常に博士の机上にあったもの。右を古代燃紙漆塗りの籠に入れて収めてある」と前記『會津八一伝』
(吉池進、p.650)に書かれていることを付記しておく。

 なお『會津八一伝』の著者吉池進
(1904~79)は信州戸倉上山田温泉の旅館千曲館の主人だが、昭和の初めに歌集『南京新唱』にふれて感銘をうけ、以後生涯を通して八一と親交を深めた。特に終戦前後には物心両面で八一ときい子を支えたことが知られている(「會津八一と千曲館」 吉池泰夫、『秋艸会報』 №34 2012年8月)。  (終)