敦煌におけるウォーナー
 
 私が中国を何回か訪問してからもう20年を超えるので中国のようすはいろいろと変化しているかと思うが、古都洛陽での仲秋の名月の夜と龍門石窟のこと、敦煌(とんこう)のことなどが思い出される。
 
 有名な龍門石窟は洛陽の近くにあるが、 さすがに観光地のせいか土産店も見学者も多い。全体として明るい雰囲気のなかで仏像を次々と見ていて気付いたのは首のない仏像が目立つことだった。 実はここに来る前に恐県で小さな石窟寺院を見学したのだが、そこでも頭部のない仏像が目立った。

 管理人は,これはいずれも日本人をはじめ外国人のやったことだと怒りをおさえるように話してくれたのを忘れることができない。 それだけに龍門石窟でこのようすを見たときには 「ああ、 またか」 といった思いを持ったのも当然だろう。そういえば美術館や展覧会で古い仏像の頭部をみることが多いなと思ったりした。 しかし、よく聞くとこうした仏像の破壊は、外国人ばかりではなくて文化大革命のときに行われたものも多いそうである。 だからといってこれまでの外国人の所業が帳消しになるものでもないだろう。 こうした心の痛む思いが極点に達したのが敦煌を見学した時だった。
 

  この時から数年後のことになるが、本当に遙々といった感じで敦煌にやってきた。しかし,莫高窟(ばっこうくつ)の入口を入るとなぜか一切の写真が禁じられた。 石窟内はもちろんだが外観の写真もである。 そのうえ見学する石窟も案内人に従うだけで希望を出すことも出来ない。 それなりの理由があるのだろうが、何か釈然としない感じである。それでも大 きな岩壁に蜂の巣のように掘られた石窟、それらをつなぐ桟(かけはし)といった写真でおな じみの風景の中を今歩いているのだと思うとこみ上げてくるものがあった。
 
 それぞれの時代の特色を示す仏像と壁画、それもよく彩色が残っているものが多く、説明を聞きながら見るにつけてもこの厳しい自然環境の中にこれだけのものがつくられたということ、そして今日に伝えられているということが不思議としかいいようがない。
 
 20世紀のはじめにイギリスのスタインが大量の書画・経巻を持ち出してここ莫高窟が世界の注目を集めた17窟蔵経洞にまつわるエピソードをはじめ、西域の石窟寺院 をめぐっての外国人にまつわる話は尽きないが、その多くは仏像や壁画の持ち出しに関するものであった。 その最たるものは1906年のドイツのル・コック隊によるトルファン ベゼクリク千仏洞からの大量の壁画の持ち出しであろう。 ほとんどすべての壁画がはがされている石窟がいくつもあるそうである。そしてここ莫高窟で有名なのが驚 くことにあのウォーナーの所業である。

 私たちがこの時見学できた323窟は唐代初期のものだが、南壁の 「アショカ王金像出現伝説図」 の中央部分が四角に剥ぎ取られて痛々しい。 これについて、ウォーナーは自著『シナ古代長行路』に次のように記しているそうである。  
 
崩れかけた顔料を固定させる無色の液体を最初に塗り、つぎに顔料部分に熱した膠状の層を塗ることにした。 しかしここに予期せぬ難関があった。 洞窟の気温が零下だったため、私の塗った化学薬品が凍結しないで漆喰の壁に浸みとおるかどうかとても自信がなかったし、煮えたつゼリー状の液を,こわばってしまう前に垂直の表面にうまくのせるのはほとんど不可能に近かった。… 私は溶けた飴のようになって煮えたつ液体のしずくを上向いた自分の顔や頭、衣類などにたらしながら何とか塗りつけ、それからゼラチン状に固まる微妙なタイミングをできる限りの手ざわり感覚の器用さではかり、指をそろえて塗った壁面にくっつけ剥がすので ある。… 毎夜、私の行為への自責の念と暗い絶望が私をおそったが、毎朝これを克服しつゝ五日の間朝から晩まで働き、荷造りまで終えた

 ウォーナが調査のために莫高窟を訪れたのは1924 大正13年だが、調査の範囲を超えて、計画的に「自責の念と暗い絶望」 と戦いながら持ち去った壁画は26種にのぼり、その他に328窟の唐代の魅力的な跪坐菩薩像のような仏像がある。 これらの多くは、ウォーナ ーの母校であり、また教鞭も取ったアメリカ ボストン郊外のハーバード大学付属 フォ ッグ美術館に現在収められている。(引用部分も含めて、 田川純三 『敦煌石窟』 1982年4月、NHKブックス 参照)

 さきの立原正秋の小説にあるような 「文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという」 高邁な精神で日本の文化財を守ったとされるウォーナーと、敦煌で美に目がくらんで自国に持ち出すことをやめられなかったウォーナーと、そのどちらが真実の彼の姿なのだろうか。日本では文化財の恩人だが、中国では悪人・盗人の一人として語り伝えられているのである。
 
昔の常識、今の常識   
 
  100年程前の大谷探検隊の収集品に関する新聞記事があった(『朝日新聞』 夕刊  2002年 6月15 日)。敦煌などの仏教遺蹟調査のために浄土真宗本願寺派の22代宗主大谷光瑞が派遣した 「探検隊が持ち帰った収集品の多くは、学術的に未整理のまま売却され、分散」。 売却を免れたものの一部と思われる9000点を所蔵する龍谷大学が電子データ化してインターネットで研究者に公開していくことになったというものである。

 この短い記事は図らずも戦前の学術調査の一端を示しているように思われる。外国人によるシルクロードの探検・調査は多くの学問的な成果をあげたが、一方で多くの貴重な文化財の国外への流出を免れなかった。このエッセイの最初に紹介したウォーナー恩人説の源と思われる矢代幸雄は「その時の彼の最大なる努力と功績は、敦煌千仏洞より美しき塑像の菩薩像一体を米国に持ち帰ったことであった。」とウォーナーの行為を高く評価しているのである。
 
 現在ではこんなことは考えられない。仏教東漸(シルクロード)をテーマとした画家平山郁夫は1960年代後半から何度も夫妻で幾多の困難を克服してシルクロードを訪ね、作品に結実していったが、同時に現地の文化財の修復や保存に力を注いで文化財赤十字運動を展開したのだった。
 
 こうした平山らの努力の結果、「文化財所有権の不法な輸入、輸出、移転を禁止し予防する手段に関する1970年の条約」 や1972年の 「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」 などが結ばれ、ユネスコの世界文化遺産保護活動が国際的に展開されていったのである。そして2014年 6月に 「シルクロード:長安ー天山回廊の交易路網」 が世界遺産に登録された。
 
 今の常識が常識ではなかった頃の文化財の不法な持出しが咎められないならば、そして立場を持出された国の人の側に置くならば、その時の常識という今の非常識をその国の人たちが糾弾するのも当然のことと考えられる。 過去の文化財の移動を巡って国と国とがもめている例は現在世界でいくつも知られている。  (続く)