ウォーナー伝説への疑問
 
 歴史研究者吉田守男氏に著書 『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫、2002年 8月)がある。これは 『京都に原爆を投下せよ』(角川書店、1995年 7月)の再刊であるが、これより先同氏は学術誌『日本史研究』(1994年 7月)に論文「ウォーナー伝説批判」を発表していわゆるウォーナー伝説に疑問の一石を投じた。
 
 第二次世界大戦末期におけるアメリカの対日政策が、戦後におけるソ連との対立、冷戦を見通した高度の政治的判断に基づくものであったことはよく知られている。 広島 ・ 長崎への原爆投下もまたこうした事情と深く関係していたことを内外の諸研究が明らかにしている。

 原爆投下の問題とウォーナー伝説を詳しく論じた吉田氏によれば、1945年 5月 アメリカの原爆目標選定委員会は、京都 ・ 広島 ・ 横浜 ・ 小倉の 4都市を目標として選定した。京都が選ばれたおもな理由は、未空襲の100万都市であること、地形的
(盆地)に最大の爆撃効果を得られること、日本人にとって特別な意味を持つ京都が被爆した時の心理的ショックが抗戦意欲をなくすといった効果を生み出すだろうというものであった。以後京都は原爆投下目標地として空襲禁止都市となった。 しかし、それ以前は決して空襲の例外とはされていなかったのである(実際に何回かの小空襲があった)

 では、京都になぜ原爆は投下されなかったのだろうか。

 それは、大戦後の国際政治の中で日本をアメリカの陣営につなぎとめるには、京都の破壊は避けなければならないとするスチムソン陸軍長官の決断によるものであった
(京都の代わりに目標に追加されたのが長崎である)。彼は1945年 7月の日記に、もし京都が原爆の目標から除外されなければ 「日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近 させることになるだろう (中略) と私は指摘した」 と記している。

 京都が戦禍を免れたのは、 こうしたアメリカの高度な政治的判断によるものであり、文化遺産を戦禍から守るといった理由からではないのである。 各地の貴重な文化財が多数戦災で失われたことは否定することのできない事実であり、奈良・鎌倉が戦災を免れたのは、人口 ・ 軍事施設 などによる空爆目標の順位が下位だったからである。決してウォーナーの努力の結果ではないというのが吉田氏の結論であった。

再びウォーナー伝説の誕生について
 
 戦後の日本にウォーナー恩人説を広めたのは、先に紹介した1945年11月11日の 『朝日新聞』 が 「京都 ・ 奈良無疵の裏、作戦国境を越えて、人類の宝を守る、米軍の陰に日本美術通」 といった見出しの記事で、美術研究家矢代幸雄の談話を添えてウォーナーの功績をたたえたことが大きいだろう。

  しか し記事にあるロバート委員会とウォーナーによる文化財リストの作成について吉田氏は、委員会は戦争地域の文化財に関してアメリカの学者 ・ 知識人を中心に1943年に組織され、リストは多数の国について作成した文化財のリストであり、日本のものはそのひとつに過ぎず、決して日本だけの特別なものではなかったこと、しかも、その第一の目的が貴重な文化財を戦禍から守ることにあったわけではなかったことを明 らかにしている。

 また、さきの新聞記事には 「現在マックァーサー司令部の文教部長たるへンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである」 と書かれている。 吉田氏は、この辺の事情についても詳細に調べて次のよ うに結論した。 戦後日本を占領したアメリカは、軍国主義を否定するとともに親米的な感情を作り出さねばならなかった。 そのために、民間情報教育局
(CIE)の対日活動の一環として意図的に作り出されたのがこのウォーナー伝説である、と。

 さきのスチムソンも、戦後の1947年 2月に発表した 「原子爆弾使用の決断」 では、京都は 「日本の旧都であり、日本の芸術と文化の聖地であった。 われわれはこの町を救うべきことを決 めた」 と、文化遺産の保護こそが第一の理由と書いている。 これはその後公刊されたアメリカ軍の戦史やトルーマン元大統領の回想録などに繰り返し引用されているそうで ある。   
(続く)