「1945年8月に終った戦争で奈良・京都・鎌倉といった古都の文化財が戦禍をまぬがれたのはウォーナー博士の尽力のおかげだ」 という話は今も時々展覧会で目にすることがある。そして多くの人たちはそれを信じているように思われる。しかし事実は果たしてどうなのだろうか、検討してみた。
 
ウォーナー伝説の一例 - 奈良・鎌倉
 
 観光地の人の動きはだいたい決まっているので、それを外れると嘘みたいに静かだったりする。奈良の 法隆寺も例外ではない。 有名な金堂や五重塔のある西院 (さいいん) も、中門を出て西へ少し歩くと人影がまばらになる。人びとはみな東へ、夢殿の方へと向かうからである。
 
 西院の西側には回廊に平行して南北に棟の長い三経院と西室 (にしむろ) が建ち、その左手奥の高台には八角形の西円堂(さいえんどう)が控えている。 両方とも鎌倉時代(13世紀)の再建であるが国宝で, 西円堂の本尊薬師如来は奈良時代(8世紀)の仏像でこれも国宝に指定されている。 このご本尊には今も地元の人たちの参詣する姿が絶えず、信仰が生きているといった感じである。


 石段を登ってこのお堂の前に立つと、左手の築地塀の向こう、木立の中に五輪塔を見ることが出来る。 堂守に尋ねると、 「そう、 あれがウォーナーさんの塔だよ」  といった返事が返ってきた。 すぐ近くだがそこへ行くにはいったん南へ戻って西大門を出て、改めて塀沿いに緩やかな坂道を登らなければならない。 物好きでないとまず訪ねては来ないところだろう。

 11月も終りに近くなると、紅葉もだいぶ散って冬の気配が漂い始めていた。 そんな静かな樹間に塔は建っていた。 やや丈の低い五輪塔が二つ, 左がウォーナーの供養塔で右は平子鐸嶺(ひらこたくれい)の供養塔である。 左に立つ石柱には, 表に 「IN MEMORY OF LANGDON WARNER ウォーナー塔」 とあり,裏には 「昭和三十三年六月九日修建」 と記されている。
 
 そして左手前にある石碑には,1957年11月 3日に除幕供養、1973年 6月 9日に石碑を建てたとあり、 ウォーナーの略歴には、1903年に来日して岡倉天心や法隆寺の佐伯定胤の知遇を得たこと、アジア太平洋戦争の際に奈良・京都を戦禍から守ったことなどが記されている。恐らく法隆寺はこうした事情から、1955年 6月 9日にウォーナーが亡 くなると供養塔を建てることにしたのであろう。

 「ウォーナーの努力で奈良や京都が戦災を免れた」 「 ウォーナーは貴重な文化財を戦禍から守ってくれた恩人」 といったウォーナー恩人説が広く行き渡っていた一例を立原正秋の小説『春の鐘』
(1978年)にみることができる。, 主人公 が法隆寺で連れの女性にする話の一節である。  
  

「この法隆寺については一つの感動的な話がある。 いや法隆寺だけでなく奈良、京都、鎌倉がその恩恵を受けているわけだが、あの大きな戦争で日本の大都市が空襲を受けたのに、奈良や京都の寺院は空襲を受けなかった。 というのは,当時、アメリカ のハーバード大学で東洋美術を研究していた人にウォーナーという博士がいた。 彼は東洋美術の学者達をあつめ、 日本の文化財のうち重要な個所には爆撃を加えないよう除外すべきだ、と目録をつくった。 アメリカ軍はその目録をもとに日本の文化財に爆撃を加えなかった。 ウォーナー博士は目録の筆頭にこの法隆寺をあげていた。 文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという考えがあったのだと思う。」   

   
 

 6月のある日、JR鎌倉駅前にあるウォーナー記念碑を訪ねた。観光客で賑わう鶴岡八幡宮側とは反対の改札口を出ると右手に木の植えられた小さな広場があり、そこに幅70センチほど、高さ 2メートルばかりの記念碑が建っていた。

 一番上にウォーナ ーの顔の丸いレリーフをはめて、その下にやや大きな字で横書きに 「文化は戦争に優先する」 と彫られている。その下に 「博士は夙に日本美術および文化を研鑚し造詣すこぶる深かった。太平洋戦争の勃発に際し氏は、日本の三古都をはじめ全土にわたる 芸術的歴史的建造物には決して戦禍の及ばぬよう強く訴えた。そして日本の多くの文化財は爆撃を免れた。博士の主張の成果というべきであろう。われら鎌倉を愛する有志相計り古都保存法制定20周年を機として、ウォーナー博士が歴史と文化の保護に示 した強靭な意志を永く伝え学ぶため記念碑を建てる。 1987年 4月 ウォーナー博士の記念碑を建てる会」 と建碑の趣旨が彫られ、英文で同様の趣旨がさらにその下に書かれている。

 どれほどの人がこの碑に足を止めているのか分からないが、古都鎌倉もまたウォーナーによって救われたと信じられていることが分かる。法隆寺は1957 昭和32年、鎌倉は1987 昭和62年のことである。
 
(注) もう一つの供養塔の平子鐸嶺は画家であるが、建築学者関野貞とともに法隆寺の再建・非再建をめぐって、非再建の立場から歴史学者喜田貞吉と論争を展開した人物である。しかし 1911年に34歳の若さで亡くなった。 鐸嶺の活躍を徳として供養塔が建てられたのであろう。 喜田貞吉との論争は1905~06年にたたかわされた。 足立康編 『法隆寺再建非再建論争史』 (1941年10月,龍吟社) に詳しい。
 
ウォーナー伝説の誕生
 
 ウォーナーと親交があった美術研究家矢代幸雄の 「ウォーナーのことども」 を読んでみた(『忘れ得ぬ人びと』 1984年2月 岩波書店)。 この中には1946年 7月に『文芸春秋』に発表した「ウォーナー君と日本」が再録されている。

 それによると噂を聞いた矢代がGHQを訪ねて関係者に直接に事情を聞いた結果、「米国は開戦と共に「戦争地域における美術及び歴史遺蹟の保護救済に関する 委員会」を設け、連邦最高裁判所判事ロバーツ氏を委員長となし、ウォーナー君はこの委員会を通じて奈良・京都の文化価値を力説し、その救済を政治と軍部との上層部に働きかけたそうである。余は、この事は単に日本のためのみならず、文化尊重の美談として人類的意義あるを思い」 1945年11月の『朝日新聞』に談話を発表したこと、また「余はウォーナー君に対する感謝の記念碑でも奈良に建てたならば如何か、と思 う」とも書いている。
 
 敗戦直後のこうした矢代の発言が源となってウォーナー恩人説が広く信じられるようになったのであろう。ウォーナー伝説の誕生である。

 矢代は中国敦煌(トンコウ)におけるウォーナーについても触れているが、「その時の彼の最大なる努力と功績とは、敦煌千仏洞より美しき塑像の菩薩像一体を米国に持ち帰ったことであった」と「稀に見る秀作」をアメリカに持ってきたウォーナーの努力を高く評価しているのである。 (続く)