日本の歴史が好きな人ならば高校の教科書で 「福岡の市」 という写真が鎌倉時代の経済社会のページにあったことを覚えているかもしれない。この時代には商工業が発達して各地に市(いち)が立って大変賑わったとして絵巻物 『一遍聖絵(ひじりえ)』 の 「福岡の市」 の部分が紹介されている(写真上)
   
  絵巻物の描く福岡の市を眺めてみよう。写真は左右に長い絵のごく一部分だが、市の賑わいは十分伝わってくる。さまざまな服装の人々が行き交う街道に面して掘立柱の店が並んでいる。履物を売る店では客が吟味している、布を売る店では女性客が布を選び、店の前では気に入った布を夫に買うようにせまる妻らしい2人、この店の上に 「福岡市」 と書いた紙がはってある。その隣には米俵を積んだ店があり、店先では米を量り売りしている。そのまた隣は魚屋で、まな板の上では大きな魚をさばいている。すぐ傍には魚をたくさん吊した天秤棒を担ぐ男の姿がある。

 街道を挟んだ手前にも店が並んでいる。大きな壺が 3つ並んでいる店、小さな壺がいくつも転がっている店などがあるが、裏側から眺めていることになるので何の店か分からない。 さらにこの手前には川が描かれており、船から荷物を揚げている男や川の傍を行く旅人の姿が見える。絵の中央には一遍上人が 3人の男と対峙した緊迫した情景がある。  

 この福岡の市が開かれたのは備前国の山陽道(岡山県瀬戸内市長船町福岡)で、すぐ側を流れる川は吉井川である。この川は今は福岡の西側(岡山市寄り)を北から南に流れているが、江戸時代以前のある時期までは東側を流れており、昔の福岡は今の川の向こう まで広がっていたそうだ。そうすると絵巻物の絵は街道を東の方から眺めたものといえそうだ。

 この辺りは平安時代には荘園だったが、鎌倉時代に街道の人馬の往来が盛んになると市場として西国一の賑わいを見せたという。吉井川の水運は内陸部との物資の交流や近くで作られた備前焼の集散に大きな役割を果たした。また近辺には刀工が住み着いて福岡一文字や備前長船(おさふね)といった一派が名刀を生産したことも知られている。


 さらに左に目を移すと、馬に乗った侍と鎧に刀、弓をもった2人の従者が左の方に勢いよく駆けていく。家に帰った子息が出家した妻から事情を聞き、憤激して 「件の法師原いづくにてもたづねいだして、せめころさむ」 と、一遍上人の一行を追いかけていく 場面である。

 やがて追いついたのが福岡で、賑わう市のまん中で今にも斬りかかろうとする子息と上人が対峙している。物語のクライマックスだ。血相を変えた子息に一遍が 「汝は吉備津宮の神主の子息か」 と問いかけると、子息は 「忽に瞋恚
(しんい、怒り憎む)やみ害心うせて、身の毛もよだちたふとくおぼへけるほどに、即本鳥(髻、もとどり)をきり て、聖を知識(友達、仲間)として出家をとげにけり」 と詞書にあり、結局この地で280 余人が出家したと書いてある。絵巻物は市の場面に続いて剃髪する子息の姿を描いて一 段落する。 

 絵巻物の絵は右から左へ時間が推移する。神主の子息の家から子息の剃髪までの推移が見事に一枚の絵に描かれて物語が展開しているのに感心するが、一遍上人の念仏のすすめがこのような結果を生み出した話に、必死に救いを求めていた当時の人々の姿と時代のようす、一遍上人の遊行の意味を感じとることが出来よう。詞書には子息が出家したのは 「古今の奇特ことなりといへども、機法の相感これおなじきものか」 と書いてある。奇特とは神仏の不思議な力を指し、衆生の阿弥陀仏をたのむ心
(機)とそれを救う仏の力(法)は一体不離だという機法一体の一例としてこの福岡の市での出来事が描かれたのであろう。

 もう一度絵巻物をみてみよう。西から東へ福岡を目指して馬を馳せる子息の先には川 が流れ、その向こうに福岡の市の賑わいが描かれている。吉井川は鎌倉時代には福岡の東を流れていたと考えられるので、絵巻物の絵は東の方からの眺めとさきに書いたが、 実は子息の目に映った西の方からの眺めになる。それならば福岡の市の向こうに川の流れが描かれなければならないが、前景に川を行き来する船や旅人を描いたのは絵に奥行 きと内容の厚みを持たせようとした絵師の工夫なのだろうか。

 しかし、絵巻物 『一遍聖絵』 は、上人の没後に弟子聖戒が絵師円伊を伴って上人の足 跡を辿ったうえで没後10年に完成したもので、写実性に富み、内容の信頼性は高いといわれている。もし絵巻物の通りだとすれば、吉井川は当時も今も福岡の西側を流れていることになる。果たしてどちらが事実なのだろう。

 一遍上人は、この後京都の因幡堂、信州の善光寺を経て遠く陸奥の祖父河野通信の墳墓まで遊行を続けることになる。その途中信州の小田切の里で初めて踊り念仏をした。 かくて遊行による賦算
(念仏札を配る)と踊り念仏という一遍独自の布教の姿が出来上がっていった。 (『一遍聖絵』 の写真は 『一遍上人絵伝』 中央公論社による)   
 
 
 


 
 寒い冬の一日この福岡の地を訪ねた。姫路市の西に位置するJR山陽本線の相生駅で赤穂線に乗換える。忠臣蔵で有名な赤穂駅、牡蠣の産地で知られた日生(ひなせ)駅、備前焼の伊部駅を通るとやがて長船駅である。瀬戸内海に沿って走る路線なのだが海の眺めがそれほどよくないのが残念だ。

 

 福岡の町は長船駅の近くにあるが、人影はなく眠ったように静かな町だった。小さな郷土館はあいにくと開館日ではないので近くの郵便局で 「何か町の資料はありませんか」 と尋ねると、「残念ながら何もありません。あちこちに立つ説明板を見てください」 との答だった。しかたなく説明板の地図を頼りに町を歩いてみた。町の西側には吉井川が北から南に流れ、川向こうを国道 2号が走っている。

 福岡の町は、南北に通る上小路・東小路とそれを東西に結ぶ横町・殿町・市場小路・ 下小路で碁盤のように区切られて 「景観形成重点区域」 とされている。この区域はそれ ほど広くはなく、町並も昔の様子がよく窺えるというほどではないがそれでも古い建物がいくつも残っていた。

 


 町の東南には播磨・備前・美作(みまさか)の守護赤松氏供養のために創建されたという日蓮宗妙興寺が建ち、宇喜多興家(おきいえ)の墓や黒田高政・重隆の墓(写真)があった。 境内にある小さな社には備前焼の狛犬が置かれて土地柄をみせていた。山門の正面、道の西外れにあたる恵美須宮の境内には一遍上人巡錫記念碑(写真下)が建っている。町の中には昔 の井戸(七つ井戸)がいくつも残されており、刀剣の福岡一文字記念碑もあった。

 何か尋ねようにも人影のない町だったがあちこちに立つ説明板を頼りに見学した結果、 妙興寺に宇喜多興家・黒田高政・重隆の墓がある事情、町の名になぜ備前をつけるのか といった福岡の町の歴史が少し分かってきた。


 


 
 室町・戦国時代にこの福岡の辺りで勢力を競い合ったのは守護大名赤松氏と山名氏であった。下剋上の時代である。守護赤松氏の守護代浦上氏に仕えた福岡の宇喜多興家だったが、その子直家の時に浦上氏を倒して備前・美作を支配し岡山城に拠った。さらに子秀家の時には備中を加えた57万石の大名となり、豊臣政権のもとで五大老の一人にまでなったが関ヶ原の戦いに敗れた結果八丈島に流され、その地で死んだ。
 
 黒田氏は近江国(滋賀県)北部の出身だが16世紀の初め高政の時に福岡に移り、子重隆の代には赤松氏の一族小寺氏に仕えて播磨の姫路城に拠ったという。重隆の孫にあたる孝高(よしたか)が有名な官兵衛で、信長・秀吉に仕えて秀吉の天下取りに貢献し豊前(大分県)中津の城主となった。その子長政は関ヶ原の戦いで徳川方について筑前(福 岡県)52万石の藩主となり、居城の名を黒田氏ゆかりの福岡城とした。これが今日の福岡県・福岡市の名称の由来といわれる。今ではこちらの福岡の方が有名となったので、そのもととなった福岡の方には備前をつけて区別するという変なことになったようだ。

 こうした時代の変転の中で福岡の市はどうなったのだろう。一つの大きな変化は吉井 川の流路が氾濫により市の東側から西側に変わったために市の区域が分断されたことである。江戸時代になっても大きな川の氾濫で村が二つに分かれてしまうことはあったので、まして治水がさらに不十分な室町・戦国時代にあっては珍しいことではなかっただろう。その上に岡山城の宇喜多直家が城下町の建設のために福岡の市の商人たちを強制 的に移住させたといわれる。

 かくて鎌倉時代以来栄えてきた福岡の市は衰退していったが、それでも江戸時代には岡山藩の保護のもとに街道の宿場町、妙興寺の門前町として存続していたという。しかし、明治維新以降はかつての面影を失って農村化してしまい今みるような静かな町となったようである。

 たまたまこの福岡の町に50数年前に数年間住んだ人のブログに出会った。久しぶりに 福岡を訪ねた時のことを記事にしたものだが、それを読むと昔のこの辺りのようすを思い描くことが出来そうだ。

 


 
「一遍上人の絵は、中学の教科書にも、高校の教科書にも載っていました。よーく覚えています。短い間でしたが、住んでいましたので、変な誇りみたいなものを感じたのを思い出します。」
 「毎月第 4日曜日には、妙興寺のお上人さまの辻説法と市が開かれます。この日の説 法は 「六根清浄」 でした。私が住んでいた頃は、このお上人さまは、まだ幼稚園にもあがっていない幼子でした。」        
「この用水、もっと幅が広かった。子供だったからではなく、コンクリートで固めていなかったし、川床には砂があり、シジミが住んでいました。季節にはホタルの群舞も見られ、団扇や笹で追っかけまわしていた良き時代でした。」
 「母は、近所の人とここで洗濯をしていました。夏は水着になり、水浴びもした思い出多い場所です。」
 「
(七つ井戸は)子供の頃は、まだ使用していました。確か、川で洗濯した物をこの井戸で濯いでいた。」 (写真)
 「用水から東方面は、一面の水田でした。まだ、牛で田起し、発動機も出始めだったような? 刈り取った稲は、足踏みの脱穀機だったし、玄米にする機械は持ち回しだった。」   
 
 ところで、時代を遡り鎌倉時代のこととなるが、『一遍聖絵』 の主題である一遍上人と福岡の市について少し考えてみよう。

 一遍上人については、これまでに 「信不信をえらばず」 で、紀州熊野本宮での神秘的 な体験による信仰の確立について、「捨ててこそ」 で、兵庫
(神戸市)における上人の最期について書いてきた。一遍上人が福岡の市に来たのは 「信不信をえらばず」 の熊野本宮参拝の 4年後のことである。元軍の再来襲(弘安の役)に備えて緊張感の漲っていた時代であった。

 一遍上人が九州から四国を経て安芸の厳島神社に参拝し、備前の藤井
(岡山市)にやってきたのは1278(弘安元)年の冬だった。藤井は山陽道の宿場の一つで、経済活動の中心地として賑わっていた福岡から西に約 8km のところにある。

 絵巻物の絵は、藤井にあった吉備津神社
(二宮安仁神社か)神主の子息の家の座敷で子息の妻の髪を下ろしている一遍上人の姿から始まる。詞書(ことばがき)によると、「念仏往生の様、出離生死の趣」 を説く一遍上人の話を聞いた妻が 「にはかに発心して出家をとげ」 たという。座敷の壁には阿弥陀来迎図が掛けてあり、左に目を移すと同じ屋敷の別 の部屋の縁先に佇む尼姿の女性が描かれている。おそらく尼となった子息の妻であろう。