JR南千住駅近くの浄閑寺にある永井荷風の詩碑。没後4年の昭和38(1963)年4月に谷崎潤一郎らによって建てられたが、本堂裏の横に細長い敷地で建築家谷口吉郎の設計によるが、詩碑として異例の大きさといえる。正面に 「荷風」 とある遺品を納めた墓碑風の石碑もある。小さな歌碑や詩碑を墓地にみることはあるが、これほど大きな詩碑が、本人の墓碑があるわけでもない墓地にあるのは珍しいだろう。

 「震災」 という詩には、大正12(1923)年9月1日の関東大震災を経験した 「明治の児」 荷風の 「江戸文化の名残烟となりぬ。明治の文化また灰となりぬ」 といった感慨が示されている。

 当時荷風は麻布の洋館 「偏奇館」 に住んでいたが、そこでの被災のようすは彼の日記 『断腸亭日乗』 に記されており、「明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失い国帑また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ」 といった感慨には、日本の近代化を旧文化の破壊の上に造られた皮相的なものとみる荷風の考えがよく示されている。


 なお、詩には荷風(1879~1959 )が親しんだり交渉のあった何人もの故人の名が記されている。「団菊」 は市川団十郎(1838~1903) と尾上菊五郎(1844~1903) で、荷風は2代市川左団次(1880~1940) と親交があった。「桜痴」 は福地桜痴(1841~1906) で、彼は若い頃一時門弟となっていた。「一葉」 「紅葉」 は樋口一葉(1872~1896) と尾崎紅葉(1867~1903) で、「日記」 に 「婦人にして、もし文学を志す所あらんとせば、まづ一葉女史の著述を暗じて、然る後人を訪うてその意見を叩くべきなり」 と書いている(1925.11.14)。「緑雨」は斎藤緑雨(1867~1904)、「円朝」 は落語の三遊亭円朝(1839~1900)、「紫蝶」 は新内・都都逸の初代富士松紫朝(1826~1902) か?荷風は若い頃落語家の弟子になったことがある。「柳村」 は上田敏(1874~1916) で訳詩集 『海潮音』 が有名だが、荷風にも訳詩文集 『珊瑚集』 がある。「鷗外」 は森鷗外(1862~1922) で、大震災の前年に亡くなった時には彼はその前日に駆けつけて病室で対面しており、その後もしばしば墓参している。この両人の推薦で荷風は慶大教授となった。

 この詩では森鷗外には漁史、日記では先生とあるのに大正5年に亡くなっている夏目漱石(1867~1916) の名はみられない。『断腸亭日乗』 によると荷風が漱石に会ったのは一回だけで、未亡人が雑誌に発表した談話を激しく非難しているのをみると(1927.9.22)、漱石とは縁がなかったようだ。


 詩碑の説明文によると、娼妓の墓が乱れ倒れているのを悦んで荷風がしばしばこの寺を訪ねたのでここに碑を建てたとある。しかし、日記を読むと 「娼妓の墓が乱れ倒れているのを悦んで」 というのはやや正確さを欠くようで、30余年ぶりに浄閑寺を訪ねた彼は昔を思い出しながら墓地を歩き自分もここに眠りたいと次のように書いている。

 「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」(1937.6.22)

 日記にはこのようにあるが、荷風の父は雑司が谷墓地に眠り、彼もそこに葬られた。詩碑に墓碑風の遺品碑が添えられたのは日記にみられる荷風の遺志を汲みとったからであろうか。