立冬を過ぎてあの異常な酷暑の夏がもはや過去のこととなったが、稔りの秋の話を聞くと宮崎県の延岡から椎葉村に向かう途中で訪ねた日之影町の見事な石垣の棚田の風景が思い出される。もはや10年ほど前のことになるが。
 
 宮崎県西部の山奥にある椎葉村を訪ねる旅に誘われて、久しぶりに九州に出 かけることになった。羽田空港から宮崎空港に飛び、そこからJRで出発地の延岡まで北に特急で 1時間10分かかるのでなにか遠回りをしているように思ったのだがこのルートが一番早いと言われた。
 
 山地のせまい道に備えてマイクロバスに乗った私たちは、延岡を出発するとまず日之影町戸川の見事な石垣の棚田を目指した。山の中にあるこの町では棚状の田畑の眺 めは珍しくはないが、棚田百選に選ばれた戸川の棚田はさすがで、阿蘇の凝灰岩を刻 んで石垣を積む村の石工たちの江戸時代末からの努力の賜物といわれる。石垣の棚田に黄金色の稲穂が輝く眺めは見事だった。
 
 バスは廃線となった高千穂鉄道のトンネルを眺めたり鉄橋をくぐったりしながら高千穂町に入ったが、今回はちょっとかすめるといった感じで神楽宿資料館に寄って当地の茅葺民家と神楽宿飾りの様子を見学するとすぐに椎葉村の鶴富屋敷に向かった。
 

 
 椎葉村は村役場のある上椎葉を中心に耳川の枝分かれした川筋に集落が散在する森林ばかりの大きな村だが、上椎葉にある鶴富屋敷は村を代表する立派な建物でまた平家の落人伝説とも結びつくものだった。
 
 昔々源氏に破れて山中に逃げた平氏を討つために椎葉村にやってきた源氏の那須大八郎は、この地が気に入って幕府に偽りの報告をして住みついたといわれる。やがて平氏の鶴富姫と出会って恋に落ち共に生活するようになった。しかし幕府の命で大八 郎が村を出た後に鶴富姫は女子を産み、その子が婿をとって那須を名のりこの鶴富屋敷に住んだというわけで、今も村には那須姓が多く毎年11月には 「椎葉平家まつり」 が行なわれている。
 

 鶴富屋敷は国の重要文化財なので泊るわけにはいかないが、同じ敷地内に客室が建ててあるのでそちらに泊って食事を古い建物でするようになっていた。鹿・猪の肉、茸汁といった山の幸、山女・鯉といった川の幸をはじめ心のこもった素朴な料理の数々、イロリには太い竹を一節切り上の節に小さな穴をあけて酒を入れた竹筒が何本も温められていた。その夜は特別に尾前地区の神楽とこの土地の民謡ひえつき節の名人の歌声まで聞くことができた。
 
 私が柳田國男を強く意識したのは、翌日 8時過ぎに宿を出たマイクロバスで上椎葉 ダムの北側を川沿いに遡ること約 1時間の不土野にある那須家住宅を見学したときだった。同家は庄屋をつとめた旧家で今の住宅は屋根を瓦葺に変更したが明治初期の建物の様子がよく残されている。今も住居として現役なので隅から隅まで見せていただくわけにはいかなかったが、柱や梁をはじめ奥に並ぶ作り付けの戸棚の戸や部屋の手作りのちゃぶ台に使われている材料の豪華さに樹木の里の贅沢を感じたが、明治末年に柳田國男がこの家を訪ねてこの部屋に泊ったことを知った時は驚いた。
 
               

 
道路が良くなった今でも椎葉村の中心地までJR日向市駅から路線バスで約 2時間 30分、不土野はさらにその奥である。こんなに不便な山の中に明治41(1908)年の夏に柳田國男が来たということが大変な驚きだった。不土野は熊本県境に近い椎葉村最奥部の一つで宮崎に出るよりも熊本の方が近いところだ。これまで柳田の椎葉村での見聞が後に 『後狩詞記』 という本になったという知識や大阪府豊中市の民家集落博物館にある椎葉村の民家を見たことはあるが、やはり現地に来てみると驚きが大きかった。

 農政学の専門家として明治33(1900)年に農商務省に入った柳田國男は、明治35 年に法制局参事官に転じたが、旅行好きの彼は仕事の合間を縫ってよく視察や講演旅行をした。明治41年の九州旅行は 5月24日から 8月22日に帰京するまで約 3ヶ月 の長期にわたった。この間 6月14日に熊本で 「日向奈須」 の話を聞いて興味を懐き、 大分へ向かう途中 7月13日に椎葉村に入ったが、「村の入口で、村長以下羽織袴で迎 える。柳田もまた紋付、袴姿であった。一週間滞在して、狩の故実の話を聞く」 と年譜にある(『柳田国男伝 年譜』 三一書房)。中央の高級官僚が山奥の村に来ることは稀有 のことだったのだろう。村人の驚きが目に浮かぶようだが、馬車や人力車を利用して も最後は自分の足で峠を越えなければ辿りつくことが出来ないような僻遠の地にやっ てきた柳田の熱意もすごかった。
 柳田自身の筆によると、『故郷七十年』(『定本 柳田國男集』 別巻第三)に、
 
福岡から久留米に行き、矢部川を遡って肥後に入った。阿蘇から熊本、天草、鹿児島から宮崎に行き、近ごろ評判の椎葉山中まで足をのばした。東京の人間で椎葉村へ入ったのは私が最初のやうにいはれたが、ともかくいたる所で大変な歓迎 をうけた。その時の土産が後に珍本になった 「後狩詞記」 である。今日ではこれが日本の民俗学の出発点のやうにいはれてゐるが、この本はその時の旅費がわづかばかりあまったので自費出版したものであった。たしか五十部ぐらゐしか刷らなかったと思ふ。
 
と書いてあり、『後狩詞記』(『定本 柳田國男集』第二十七巻)の 「序」 には、
 
記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀬淳氏から口又は筆に依って直接に伝へられたものである。中瀬氏は椎葉村大字下福良小字嶽枝尾の昔の給主である。中世の名主職を持って近世の名主職に従事して居る人である。此人には確に狩に対する遺伝的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜中瀬君と同宿して猪と鹿との話を聴いた。大字大河内の椎葉徳蔵氏の家に泊った夜は、近頃此家に買得した狩の伝書をも共に見た。東京へ帰って後頼んで狩の話を書いて貰った。 歴史としては最新しく紀行としては最古めかしいこの一小冊子は、私以外の世の中の人の為にも、随分風変りの珍書と言ってよかろう。
 
とある。
 
 
さらに、不土野にある那須家住宅(旧庄屋 那須源蔵邸)に立つ説明板には、「明治四 十一年(一九〇八)七月十三日、椎葉入りした柳田国男は七月十五日大河内の椎葉徳蔵邸に泊り、「後狩詞記」 執筆の動機となった一冊の狩猟文書を見る。翌十六日、飯干峠 を越え、不土野の那須源蔵邸に泊る。同家は藩政時代庄屋職を勤めた旧家で、今でも 「お屋敷」 の尊称で村びとから親しまれている。(中略)柳田国男がここを訪ねたとき、 彼は四十五歳、明治三十八年創業の焼酎醸造業(銘柄源泉)も活況を呈し、那須家全盛の時代であった。(以下略)」(柳田国男訪村八十五周年記念 平成五年七月十六日 椎葉村教育委員会)とある。

 柳田國男が世話になった中瀬淳宅は、大河内の椎葉宅と不土野の那須宅の中間に位置し記念碑が建てられているようだが訪ねることが出来なかった。柳田がこの村を訪ねてから100年経つが今も村の人が忘れずにいるのは、彼の訪村がよほど大きな出来事だったからだろうか。
 

 
 柳田國男がこの村に来て記録を読み、話を聞いて感銘を受けたのは、狩猟と焼畑の生活が昔の話ではなくて今もあるということだった。遠い昔の生活が機械化の進む20世紀に並存している事実を知って驚き、記録することを思い立ったのであろう。現地での聞取りと古い記録をまとめた 『後狩詞記(のちのかりことばのき)』 を自費で出版 たのは明治42(1909)年 3月だった。書名は、昔の鹿狩の記録が 『狩詞記』 として 『群書類従』 にあるので 「後」 の文字を加え、副題は 「日向国奈須の山村に於て今も行は るゝ猪狩の故実」 とした。内容は、聞取りを 「土地の名目・狩ことば・狩の作法・色々の口伝」 にまとめ、古い記録 「狩之巻」 と 「序」 を添えて一本とした。

 柳田は、椎葉村に見られる山の民の生活は稲作を主とする平地の民が支配的となる以前の時代の姿と考えたので、序文で 「山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一の棒では無くて、山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが我国のさまである」 と書いた。こうした考えは後の 『民間伝承論』(昭和9年)との関連で注目されよう。

 長い序文の最後に触れたのは村の家の造りについてだった。 「山腹を切平げた屋敷は、奥行を十分に取られぬから、家が極めて横に長い。其後面は悉く壁であって、前面は凡て二段の通り縁になって居る。間の数は普通三つで、必ず中の間が正庁である。 三間とも表から三分の一の処に中仕切があって、貴賎の坐席を区別して居る」 とその特徴を的確に指摘している。

 序文の中に建物の間取図があるのは珍しいが、今回見ることの出来た鶴富屋敷も不土野の那須宅もともに部屋が四つある大型の民家で、前者は前面(桁行)13間側面(梁行)4.5間あり、後者は前面12間 側面4.5間で軒下がせがい造りとなり繰り形を施した持送りがたくさん用いられ、どちらも材料・意匠に優れた質の高い建物である。 
 

 不土野からはだいぶ離れた十根川の民家も見た。十根川神社には、那須大八郎が植えたと伝える樹齢800年以上という大杉が聳えている。集落は、神社の前の斜面に広がる。石垣で雛段状に造られた敷地に建てられた10棟前後の民家は前面 9間側面 4 間くらいが普通でやや大きいのが前面11間側面4.5間だった。民家の背面は石垣に近接し前面も狭いので家が横長の並列型になるのがよく分かる。だが、どの家も屋根を瓦葺きに改造してしまったので、集落の景観は往時とはだいぶ異なっているだろう。

   椎葉村の民家は、「山腹を切平げた屋敷」 といってもどこも十根川の民家のような立地条件ではない。事実鶴富屋敷も不土野の那須宅も梁行をもう少し大きくすることは可能に見える。とすれば、広間型や田の字型の建物を建てるのも決して不可能ではないだろう。近くの同じような地形の高千穂町には並列型と広間型・田の字型が混在するという。してみると、椎葉村に特徴的な並列型の民家は、柳田のいうように 「奥行を十分に取られぬから」 といった理由の他に村特有の何らかの事情が隠れているように思われるのだがどうだろうか。

 柳田國男は椎葉村への旅から帰京した直後の明治41(1908)年11月に友人水野葉舟とともに初めて佐々木喜善と会っている。佐々木の話に興味を持った柳田はその後何度も佐々木と会い、岩手県遠野にも足を伸ばして、明治43年 6月には 『遠野物語』 を出版した。これは 『後狩詞記』 出版の翌年に当る。明治末年が柳田の学問にとって一つの節目に当っていたことが分かる。
 

 
 東京から宮崎に飛んだ日に私は飫肥(おび)を訪ねたが、JRで空港から約 1時間ばかりの眠ったように静かな町だった。ここは伊東家 5万石の城下町で、上級武士の屋敷が並んでいた辺りの整然とした石垣が印象的だった。江戸時代末期に設立された藩校振徳堂では儒学者安井滄洲・息軒父子が教え、日露戦争時の外務大臣小村寿太郎の出身地としても知られている。

 町を一通り見て歩いたが、郵便局の前に柳田國男の碑が建っているのに気づいた。 わりと大きな石に 『海南小記』 の一節が次のように刻まれている。
 
水煙る川のほとり/海南小記(民俗学者 柳田国男)より

 「飫肥の町へは十二年ぶりにはいってきた…静かな川の音 板橋を渡る在所のウマの轟きまで 以前も聴いたような気がしてなつかしい 城跡の木立のマツ・スギ は伐ってまた栽えた付近の山よりはおおいに古く かって穴生役の技芸を尽くしたかと思う石垣の石の色には 歴史の書よりもさらに透徹した 懐古の味わいを漂わせている  中略  
 山が近いからか またはこのごろの季節のためか 今朝も おおいに立っていた水煙が 晩方にも酒谷川の流れを蔽うている」
 
 柳田国男は明治末と大正九年一月に二回飫肥を訪れている。彼の紀行文は数多いが、民俗学者としてとらえた水郷・城下町飫肥の描写は素晴らしい。

 

 碑の裏には、「飫肥郵便取扱所開設 120周年記念/贈 本町商人通り振興会 平成 4年 7月」 と書かれて協賛者の名前が列記されていた。
 
 『海南小記』(『定本 柳田國男集』 第一巻)は、柳田が大正10(1921)年に沖縄諸島を訪ね歩いた時の記録で、その冒頭に前年12月に神戸から船で別府に上陸して臼杵・ 延岡・宮崎・鹿児島と九州の東海岸を南下した時のことが少し書かれている。「飫肥の人たちはなぜ柳田國男のこの記述を選んだのだろう」 と不思議に思い、椎葉村の旅を 終えてから改めて飫肥の部分を読んでみた。そこで気付いたのだが、さきの記念碑の碑文は漢字や仮名の使い方が原文とはだいぶ異なっている。「文は人なり」 とも 「石碑は千年も遺る」 ともいうのでもう少し慎重であって欲しかった。

 『海南小記』 の 「五 水煙る川のほとり」 は、「飫肥の町へは十二年ぶりに入って来 た」 に始まる。12年前は明治41年だから椎葉村を訪ねた年にあたる。この時は熊本・ 鹿児島県を巡回してから椎葉村に入り大分へ行ったのだが、飫肥の町は大分の方向からはだいぶ外れている。それとも椎葉村に入る前に飫肥に寄ったのだろうか。

 12年ぶりに山に囲まれた小さな城下町飫肥を訪ねた柳田は、城跡の木立や石垣に、町のたたずまいに懐かしさを覚えるが、一方で時とともに古いものが忘れられていく ことにある寂しさを感じた。前の部分は記念碑が引用する通りだが、柳田の短い文章 の主眼はむしろ後の部分にあるように思われる。

 西南戦争で賊軍となって死んだこの町の人たち、日清・日露戦争で亡くなった多くの若者、この土地のために尽した学者・教育者をはじめたくさんの人たちも世間に名を知られた少数の人を除けば忘れられようとしていた。「与へられたる平和を出来る限 り楽み、安閑の生涯を送って居た多数の高士は、永遠に歴史の表面から消え去った。 要するに斯う云ふ先例の集積したものが、即ち町それ自身であったのである。都会は一般に現代を小売する場所だ。従って飫肥ばかりが古い感情の姨捨山で無かったら其は寧ろ不自然な現象と謂はねばならぬ」 「我々が求める平和の基礎には、やはり沢山の忘却が必要なのではあるまいかとも思って見た」 といった感慨は、柳田の歴史についての考えをよく示している。

 歴史は名を知られた少数の人たちの事績や事件がすべてではない。「沢山の忘却」 の後に現在があるとすれば、現在を深く理解するには 「沢山の忘却」 を掘り起さなければならない。ではこの 「沢山の忘却」 をどのようにして掘り起したらよいのだろうか。 柳田國男が試行錯誤を重ねながら追及したその方法、後に 「民俗学」 と呼ばれる彼の学問の問題意識を、椎葉村や飫肥への旅の文章に垣間見ることができたのはこの時の九州の旅の密やかな収穫であった。
 

 

 それにしても、柳田國男はなぜ飫肥を訪ねたのだろうか。「阿蘇から熊本、天草、鹿児島から宮崎に行き、近ごろ評判の椎葉山中まで足をのばした」(『故郷七十年』)と書 いているので、おそらく鹿児島から椎葉村へは西からの山越えではなく、東からの道を辿ったのであろう。当時宮崎県にはまだ鉄道はなかったので、鹿児島からは山地を越えて飫肥に入り、近くの油津から船で美々津に渡り、耳川に沿って椎葉村を目指 たのではないだろうか。耳川は同村に源を発し、河口の美々津は耳川を利用した内陸部との物資の流通と、大阪と結ぶ海運で栄えた港町だった。この町も訪ねたが当時の繁栄を偲ばせる町並みがよく残されていた(写真)。大正 9(1920)年の 『海南小記』 の旅では北からの船で油津に上陸して飫肥まで開通していた鉄道を利用している(大正 2年開通)

 このように飫肥を 2回も訪ねた目的について柳田國男は特に書いていないが、古い城下町への興味だけとは思われない。『海南小記』 に、「あの時夜更まで来て話した郡長の田内氏を始め、僅か十二年の間に死ぬ人は死に、去る人は遠く去ってしまった」 と書いているので、この人たちとの再会を期して足を運んだとも考えられる。だから こそ時の推移の非情を痛感したのだろう。

 想像を逞しくするならば、あるいは安井息軒への関心からかとも考えられる。天保 2年(1831)年に落成した藩校振徳堂で父滄洲とともに教えた息軒は後に江戸に出て活躍の場を広げ、やがて幕府に認められて昌平坂学問所の教授となってその学識が広く知られるようになった。明治維新の前後にも江戸で活躍し明治 9年東京で没した。

 こうした安井息軒の行実と、夫と家庭に尽しきった夫人佐代の生涯を、「お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか」 と深い賞讃の思いをもって描いた森鴎外の小説 「安井夫人」 が発表されたのは大正 3年 4月の雑誌 『太陽』 である。

 森鴎外とは山県有朋の息のかかっ た歌会常磐会以前から旧知の間柄であり、鴎外を尊敬していた柳田がこの作品を知らないことはないであろう。それだけに、「今の小学校の巨大な建物に、引懸け居るものは振徳 堂の額だけで、百数十年の学徒の労作や蒐集などは、もう偶然の訪問者等には、ちょ っと観られぬやうな処に蔵してあるらしい」 といったように、息軒の故郷飫肥を訪ねたときの失望も大きかったに違いない。「自分は旅の無聊を奈何ともする能はずして」、 「自分も亦偶然に、今一度過ぎて往くのみである」 と、二度目の飫肥訪問は決して満足のいくものではなかったのであろう。振徳堂は一時期小学校に使われたが、今は主屋と長屋門が旧地に保存されている。私が訪ねた時にはお年寄たちが庭でゲートボー ルを楽しんでいた。
 
 いささか本文の主題からは逸れたが、いろいろと考えることの多かった九州 の旅であった。