石川啄木の最晩年の友人に土岐善麿 (哀果、1885~1980) がいるが、彼の著書の一 つに 『啄木追懐』 がある。私の手元にあるのは昭和22(1947)年9月に新人社から 発行された物資欠乏の戦争直後の時代を思わせる粗末な本だが、読んでいるうちに少 しずつ壊れていく始末で、本の表題も右横書きになっている。本には啄木についての思い出や啄木死後の妻節子のことなどが書かれており、土岐宛の節子の手紙も収められている。この本は実は昭和 7(1932)年に改造社から出版されたものの復刊で、収 められた文章はいずれも大正から昭和の初年にかけて書かれたものである。なお、土岐善麿は啄木と交遊のあった頃には哀果と号していた。

 この本の冒頭には 「明日の考察」 と題した30ページにも及ぶ一篇が収められている。これは啄木のよく知られた論文 「時代閉塞の現状」 を踏まえた文章だが、私はこれを読んで感動した。「時代閉塞の現状」 は、啄木が明治43(1910)年 8月に 『朝日新聞』 に発表するつもりで書いたが掲載されずに終ったもので、いわゆる大逆事件の起った直後にあたる。生前に読まれることのなかったこの論文を初めて活字にして世に出したのが啄木の遺稿の整理・公開にあたった哀果だった。

 詩人・歌人として知られてはいてもその思想の真価がまだ知られることの少なかっ た啄木について、これほど深く理解し、人々に語りかけた友人が啄木の生前にいたこ とは大きな驚きだった。 土岐哀果は、この長い文章の冒頭と最後に次のように書いている。
 
「明日の考察!これ実に我々が今日に於て為すべき唯一である。さうして又総てである。」-啄木の思想生活は、その晩年においてここに到達した。現代の社会組織、政治組織、家族制度、教育制度、その他百般の事象にわたって、静かに、熱心に、深く、検覈し、討究し、批判しなければならぬ。昨日に帰らうとする旧思想家、今日に没頭しつつある新思想家、それらの人々の前に、新たに明日といふ問題を提示して、之を 「時代」 の意志と体験に統合しなければならぬ。(中略) 彼は 「明日」 に対する欲求と準備と、計画とのために、焦慮し、苦闘し、絶望し、諦め、悲しみ、怒り、嘆きつつ、身を切るやうな物質生活の窮乏の中に、僅かに 二十七歳の短生涯を終った。彼の全精神は 「明日」 のために極度の緊張をなしつ つその肉体は遂に 「今日」 のいたましい犠牲となったのである。…
啄木逝いて十二年、彼のふるさとには一基の尨大な花崗岩の記念碑が建てられた。 一個の歌人、一個の詩人、文学者としてのみ彼を追懐することを拒否する、謂ゆる 「無名青年」 の手によって、「やはらかに柳青める北上の岸辺」 に建てられたのである。(中略) この計画の最初から完成の最後迄、彼等無名青年達のもった 熱烈な意志と純真な行動こそは、地下の啄木をして、僅に微笑を催さしめるやうなものであった。啄木が 「明日」 のために待ち望んでゐたものは、この 「無名青年」 としての自覚と、団結力ではなかったか。形有る記念碑を更にまた建てるには及ばない。「明日」 の生と希望の上に無数に建てられる形無き記念碑、彼は、その礎の下に眼をあげて、彼の絶望と死が初めて空しくなかったことを知るであらうと思ふのである。
 
 哀果がこの文章を書いたのは大正12(1923)年 4月であるが、当時は第一次世界大戦後で社会主義国家ソ連が誕生していた。社会主義はもはや遠い未来の理想ではなく現実のものとなっていたのである。このような世界の動きをうけて国内では社会運動・労働運動が発展し、大正11年には日本共産党が非合法に結成されていた。大正14年には普通選挙法が実現している。
 

 
 土岐哀果が初めて石川啄木 と会ったのは明治44(1911)年の 1月なので、親しく行き来したのは僅か 1年余にすぎない。しかし、今日知られている啄木像の形成は哀果の存在を抜きにしては語れないだろう。

 哀果は明治43年 4月にローマ字 3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を、啄木は同じ年の12月に同じく 3行書きの歌集 『一握の砂』 を出版している。そして前年の4月 から 6月にかけて啄木はローマ字で日記を書いており、早稲田大学以来哀果の友人だった若山牧水がやっていた雑誌 『創作』 はこの2人の作品発表の場であった。しかも 生家が寺院と共通点の多い2人が出会うのは必然だったともいえようか。

 『明星』 の歌人としてすでに知られていた啄木は、『東京朝日新聞』に掲載した 「“NAKIWARAI” を読む」(8月)、「歌のいろいろ」(12月)で哀果の歌を取り上げて、「誰でも一寸一寸経験するやうな感じを誰でも歌ひ得るやうな平易な歌ひ方で歌ってあるだけである。其処に此の作者の勇気と真実とがあると私は思ふ」と、生活の実感に即した歌を評価し、「歌それぞれの調子に依って或歌は二行に或歌は三行に書くこ とにすれば可い。よしそれが歌の調子そのものを破ると言はれるにしてからが、その在来の調子それ自身が我々の感情にしっくりそぐはなくなって来たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ」と 3行書きを支持し、「忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない」と、哀果や自分の歌こそが「今日の歌」と主張した。

 哀果はこのような啄木の文を読み、「僕は、啄木によって、僕の作品の「価値」と 「意義」とを一層はっきりと発揚されたのだ。早稲田の学窓時代から、親しい交遊をもっ た若山牧水などが、その「創作」誌上、僕の歌に非難を加へたりしてゐた一方、これほど理解あることばを聞かせてくれる友達、しかも未見の友達のあることに、僕は感謝したのだった」(『啄木追懐』)と、共に語り合うことの出来そうな啄木と会うことを願ったのだった。(哀果は明治18年、啄木は同19年に生れている。)

 哀果は当時読売新聞社社会部の記者をしていたが、朝日新聞社にいた友人を介して啄木に初めて会ったのは明治44年 1月である。その日読売新聞社で落合った二人は啄木宅で話すことにして本郷の喜之床に向かった。哀果が、「二階の住居は二室つづきかで、六畳と四畳半ぐらゐだったかと思ふ。六畳が啄木の書斎、四畳半の方に家族がゐた。老母、節子さん。京ちゃん。この二室の前に通じてゐるせまい廊下を隔てて、裏屋根に面する窓、その一尺ほど高くなってゐる敷居の辺に、土鍋や小皿など簡単な 食器が散在してゐた印象が今も眼に浮ぶ。(中略)啄木の書斎は、書生じみた机に、竹細工か何かの小さな書棚、床の間にも雑誌や書物がつめ込んであった。書物も、背革 とか金文字とかいふいかめしいものはなくて、仮綴の古本が多かった。当時段々と古本屋をあさって、すこしづつ集めた社会主義関係の文献らしい」(『啄木追懐』)と、啄 木一家の住まいの様子を伝えてくれるのが貴重だが、広い部屋を彼が一人で占領しているのはしばしば来客のあったためだろうか、それとも家庭では案外に封建的だったからだろうか。

 二人が蕎麦と酒を口にしながら相談したのは雑誌発行のことだった。雑誌の名称は二人の号から一文字づつをとって 『樹木と果実』 とし、たんなる文芸誌を越えて青年に働きかけることを考えたのだが、啄木の病気と印刷所の不始末のために結局この雑誌は発行されずに終った。(啄木の没後、哀果はこの志を継いで雑誌『生活と芸術』を発行した。)

 急速に親密になった二人だが、哀果は啄木の病み衰えていく姿だけではなく、一家の経済的な窮状、病気、不和の悲惨な様子にいやでも接することになった。8月に喜之床から引越した小石川久堅町の 「窪地の道傍にあって、小さな門をくぐると玄関があり、その三畳の次ぎが、八畳、左に六畳、その二室の前にせまい縁側がついてゐた。 九円の家賃。それでも彼は、今までの間借生活から、一家の主人になったわけだった」 と哀果が書残してくれた借家で啄木は翌明治45(1912)年 4月に息を引取った。そ の前月には母が亡くなっており、葬儀はどちらも哀果の生家である浅草等光寺で行なわれた。
 

 
 啄木が死ぬ数日前に、「飲みたい薬も飲めない」という窮状を人づてに聞いた哀果は歌集『悲しき玩具』の出版を東雲堂書店にかけあって原稿料を届けたが、没後に遺稿類を未亡人となった節子と連絡を取りながら整理をして世に出すことに努めたのも彼だった。歌集『悲しき玩具』は啄木の生前には間に合わなかったが 6月に出版された。 また、啄木の書いた小説では評価の高い「我等の一団と彼」を哀果の勤める『読売新聞』に連載したのは大正元年 8~9月である。(大正5年には単行本として出版。明治45年は 7月から大正元年となった。)

 哀果はさらに『啄木遺稿』を大正 2年 5月に出版したが、その中には 「時代閉塞の現状」や詩稿「呼子と口笛」が含まれていた。その前月には啄木の一周忌追悼会を等光寺で営んでいる。大正 8年から 9年にかけて新潮社から刊行された『啄木全集』全 3巻も彼の尽力によるものであった。かくて悲運の最期を遂げた石川啄木の文学と思想が次の時代の人たちに引継がれることとなった。これらの出版によって生じた原稿料や印税は遺族の生活の助けとなり、遺児の育英資金にも当てられたのである。また、「啄木全集が新潮社から三冊出版されることになって、印税がはひった時」「(金田一 と)協議の上百円だけそこの主人に送った。蓋平館では意外に思ったらしいが、啄木 も、死んで、初めて借金の一つがぬけた」といったこともあった(『啄木追懐』)。

 啄木と哀果の交遊は短かったが、哀果には計りしれないものを遺した。「僕は金田一京助氏に比べると、啄木の晩年に交遊があり、彼の生活は依然たる窮乏の中にありながら、その思想においても、その人格においても、その性情においても、尊敬し得る啄木となってゐたことは、私情にわたることながら、僕にとっての幸ひである。啄木に対して僕は一度もいやな思ひをしたことが無い。社会認識の上においても、兄事するに足りた」と昭和 3年に書いている(『啄木追懐』)
 
 啄木の最晩年には、妻の節子はただでさえ大変な生活の上にずいぶんと辛い立場に立たされていた。明治42年秋には実家への帰省をめぐって啄木ともめ、44年には、6月に実家の堀合家と義絶となり、続いて9月には宮崎郁雨(義弟)との不義を疑われて郁雨とも義絶になり、また長年の親友金田一京助とも疎遠となって啄木一家の窮状と節子の苦悩はますます深くなった。

 節子は啄木の最後を伝える彼の妹光子宛の長い手紙の中で、「少しおちついてから何 か云ふ事がと聞きましたら、お前には気の毒だった、早くお産して丈夫になり京子を育てゝくれと申し、お父様にはすまないけれどもかせいで下さいと申しましてね」 と書いている
(三浦光子 『兄啄木の思い出』)。いろいろな諍いはあっても夫婦のつなが りは切れていなかった。啄木は生前に日記の破棄を命じたというが、それには従わずに節子はその他の遺稿とともに大切に保管していた。「啄木が焼けと申したんですけれど、私の愛着が結局さうさせませんでした」 と節子は郁雨に語っている(「啄木日記と私」)。節子の啄木への愛情と信頼がなければ哀果の努力も陽の目を見ることはなかったろう。その後無事次女房子を生んだ節子は実家の転居先である函館に移ったが、二人の子を遺して僅か一年後には啄木と同じ病気で世を去った。

 節子の護ってきた日記や遺稿類は、私立函館図書館主事岡田健蔵が同図書館に啄木文庫を設けてその寄贈または寄託を彼女の亡くなる前に懇請したことにより、その遺志を受けて義弟宮崎郁雨を通じて寄託された。図書館は昭和 2
(1927)年に函館市に移管されたが、その際岡田の不燃性の建物をという強い要望により鉄筋コンクリート の図書館が実現した。昭和 9年の函館の大火に際して日記・遺稿類が被害を受けなかったのもこうした岡田の努力が大きく、日記は昭和14(1939)年に永久保存を条件に正式に寄贈された。こうした啄木の貴重な資料は現在函館市文学館でその一部を見るこ とができる(なお日記が公開されたのは戦後の昭和23(1948)年である。 『啄木全集』 第 5巻 「解題」 岩城之徳 筑摩書房)
 
 亡友石川啄木の文学と思想を深く理解しその公開に努力した土岐哀果の真摯な友情、 亡夫の日記・遺稿を必死に護った妻節子のよせた信頼と愛情、啄木の死を哀惜してその遺稿類の収集・保存をはかった岡田健蔵ら函館の人たちの必死の努力、この三つのどの一つが欠けても我々の知る啄木像は極めて不十分なものとなったのではないかと 思うのである。
 
 土岐哀果の歌  (歌集 『雑音の中』 より 大正 5年)
 
 かくてあれば、わが今日をしもあらしめし亡き友の前にひそかにわく涙
 かれ遂にこのひと壷のしろき骨、たったこれだけになりにけるかも。
 人のよの不平をわれにをしえつるかれ今あらずひとりわが悲し。
 あのころのわが貧しさに、いたましく、悲しく友を死なしめしかな。
 いまぞわれら柩のなかにをさむるか、まけずぎらひのかれの体を。
 そのあとに病ひかならずおもれども、われら語れば憤るなる。
 『おい、これからも頼むぞ』 と言ひて死にし、この追憶をひそかに怖る。